相馬の子どもたちに その2.楽器を手にするということ

学び、求め続けることが大切。OK、それは何となくわかった。とりあえずやってみよう。でもそのまえに楽器のことを少し書いておきたい。

君たちには楽器がある。たくさんの人々のサポートのおかげで、楽器を持つことができている。またしても、うらやましい!!僕が弦楽器をはじめられるような環境でなかったことを前の記事で書いたけれど、実は僕はヴァイオリンを持っている。ゲットしたのは大学受験に失敗して浪人していたときのことだ。きっと両親は、僕が浪人中にこっそり楽器を入手したことを知らないと思う。ずっと自習室に置いていたからさ。

それは魂柱の立っていないヴァイオリン。安物というか、今考えてみれば楽器と呼べないぐらいのものだった。それでもいいやと手に入れてみて、本屋さんで教則本を買って弾いてみて絶望した。なんと汚い音!ドラえもんで見た、しずかちゃんのヴァイオリンのよう。これの何が面白いんだ、と思ったのをよく覚えている。

それでも勉強そっちのけで独学で練習する日を続けてみた。そしてほんのちょっと弾けるようになったとき、調弦していて、突然弦が切れた。切れた弦は顔にあたり、駒が倒れた。痛かった。そのことが当時の僕にはとても怖く感じられた。楽器をどこに持っていったらいいかもわからなくて、しかも、こんなものを持っていくのも恥ずかしく思えて、しばらくヴァイオリンを触ることはなかった。

そのあと大学に入ってからチェロを貸してもらう機会に恵まれて、今もときどきチェロを触る。相変わらずあんまり上手くはならないけれど(練習しないのだから当たり前だ)弦楽器ってすごいよなあ、という思いは高まるばかり。ご縁でストラディヴァリウスのような銘器を触らせて頂くこともあってそのすごさに感動することもあったのだけど、その話は長くなるのでまた今度することにしよう。

フルートもやってみた。だけど、僕がやらなくても、身の回りには素晴らしいフルーティストがたくさんいて、正直なところ、自分で吹くより彼・彼女たちの音を聞いたり、一緒に演奏しているほうが好きだなあと思った。というより、指揮というものに出会ってからは、もうこれしか考えられなくなって四六時中指揮の練習ばかりしていた。大げさじゃなくて本当に、寝るときも布団のなかで指揮棒を握りしめていたぐらい。指揮棒を握るのは実はとんでもなく難しい。すこしでも指揮棒と手を一体化させたくてそんなことをしていた。

一つだけ確かなことがある。楽器を持っている。それは、世界への切符を手にしたのとほとんど同じだということ。楽器を奏でることができる。それは、世界に通ずる言葉をひとつ話せることとほとんど同じことなのだ。僕はほんとうにそう思う。世界のいろんなところで指揮するうちに、そのことを目の当たりにした。

英語もフランス語もアラビア語も話せない友人が、モロッコで一緒に演奏した時とき、楽器ひとつで何カ国もの奏者と意思疎通していて心底驚いた。最初はその友人もつたない外国語で話そうとしていたみたいだけど、最終的に彼女はリハーサル中、堂々たる日本語で(!)モロッコの人たちと話していた。伝わらないなと思った時には演奏することで伝えていた。この話の大事なところは、伝えようとする意志が何よりも大切ということであり、楽器は、音楽は共通言語になりえるということ。

そう。音楽は言葉だ。言葉は音楽だ。バッハのブランデンブルク協奏曲を戸田先生に教えて頂いたとき、「話す音楽だよ」と言われたのを思い出して欲しい。今日僕が、リズムはあらゆることに応用できるといったのを思い出して欲しい。

君は音楽で何を話す?そして、音楽で学んだことを他にどう活かすだろう?あるいは、音楽以外のことから学んだことを音楽にどう活かすだろう?

音楽のプロになるとかならないとかは関係なく、楽器を手にできるありがたさを忘れずにいつも考え続けて欲しい。君が手にするその楽器で、誰に何を伝えたいのか、と。

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