客観の獲得

普段自分が指揮しているオーケストラを、指揮しない立場から見る。あるいは、別の先生が指導してくださっている時に学びにいく。これは僕にはとても重要なことだ。

それによって何が分かるのだろうか?まず一つには、自分が普段どんな影響を及ぼしているかを客観的に見ることができる。指揮という行為は情報を発信しながらトラブル・シューティングを同時にこなすという同時平行的な営みだ。つまり、頭のなかで鳴っている「理想の音」と、実際に鳴っている「現実の音」との差分を埋めていくのがリハーサルにおける指揮者の仕事の一つである。しかし、自分が指揮していると、客観的な把握にはどこかで限界がある。脳内の「理想の音」を現実の音に重ねてしまって現実を見過ごすこともある。また、音が変わったとしても、自分が影響したのか(さらには自分が「どのように」影響したのか)、それとも自分とは無縁に変化が起こったのかを完璧に把握することが困難であったりする。

もちろん、その難しさを出来る限り克服し、自省しつつ修正点を探っていく「離見の見」(世阿弥)にあるのが我々の仕事。そのことを突きつめつつも、これをさらに効果的にするための一番いい方法は、こうして、自分が指揮していないときにオーケストラがどんな状態にあるのかを冷静に見てみることだと思っている。

もう一つの理由として、このことによってオーケストラ全体の様子を理解することができる、ということがある。偉大なる先達のマエストロにおいては、たとえばヴァイオリンのプルトの一番後ろまで気を配っていたことを示すような様々な伝説が語り継がれている。ロリン・マゼールは、マーラーの「千人の交響曲」で合唱団の一人を指差して「高い」と音程を指摘したというが、実際にはそんなことはマゼールぐらいの天才でなければできるものではない。

しかも、それが楽器をはじめたばかりのメンバーを含むオーケストラの場合、余計にこんなふうにはいかない。高い低いのみならず臨時記号を落としていたり、そもそも違う調で楽譜を読んでいたりリズムが全く異なったり、ありとあらゆる事件が同時多発的に起きる。それを解きほぐしてビルド・アップしていくのが醍醐味であり、そこに僕はやりがいを感じているのだが、そのときに起きがちな「上達のペースの差」という現象に注意深くありたいと思うのだ。「前のほうの人たちは弾けるようになったが、後ろのほうの人たちはまだ追いつかない」ということが往々にして起こる。(これは当たり前のことで、何も悪いことではない)

そのとき、相当に厳しい耳で臨まないと、前のほうから聞こえてくる「弾ける音」をつい無意識に拾ってしまいがちになる。結果として、出来ているような気になってしまう。ここを誤ると、「指揮台では結構弾けているように聞こえるけど、客席や録音で聴いてみると…あれれ?」という現象が起きる。そのことを冷静に受け止めるためにも、プルトの前後を逆にしてみるといった工夫だけでなく、普段自分が指揮しているオーケストラを指揮しない立場から客観的に観るということが欠かせないのだ。それによって、次のリハーサルまでに最も有効な作戦を立案することができる。

観る。それだけのためにはるばる来たの?と思われるかもしれない。でも、それは何の苦にもならない。これこそが音楽のクオリティに直結する。そのためにできることがあれば何だってやるのだ。

何よりも、僕はもっと学びたい。いつも指揮しているオーケストラを弦楽器の素晴らしい先生が指導してくださる。それは少なくとも自分にとっては最高の学びの場になる。ああ、そうやって弾けばいいのかと深い納得を得る。ここにいる誰よりも学んでやろうとすら思う。

教えることは学ぶこと。この記事のサムネイル画像に引用した、カンディンスキーの「相互の和音」を見ていると、いつもそのことを考えてしまう。そもそも、学ばない者は教える資格などないのだから。

新しいことを知るのはいつも楽しい。飢えていなければならない。いつまでも学ぶことが大好きでありたい。

Last Modified on 2020年12月7日
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