相馬の子どもたちに その1.学び、求め続けること。

実はブログを読んでいますと言われてしまったので、彼・彼女たちに向けて書いてみよう。相馬で指揮するようになって僕はとっても幸せで、ずーっとみんなのことが頭にある。

はじめて君たちのオーケストラに指揮にいったとき、最初に思ったのは「ああ、うらやましいな。」ということだった。ここには、素敵な練習場所と楽器がある。親切に教えてくれる先生たちもいる。そして何より一緒に演奏する仲間がいる。

僕は君たちぐらいの年齢のとき、そのいずれにも巡り会うことができなかった。幸いにも両親にピアノを3歳から習わせてもらったけど(そのことにはとっても感謝している)家にあるのはふるーい電子ピアノで、自分が難しい曲を弾けるようになればなるほど、ピアノの鍵盤がガコガコ言う音がうるさくて弾く気にならなくなった。当時教えて頂いていたピアノの先生に「モーツァルトのピアノ協奏曲を弾きたい」といったとき、「とんでもない!子どもなんだから無理よ。まずモーツァルトのピアノ・ソナタを全部ちゃんと弾けてからよ」と言われてやる気を失ってしまった。

ましてや弦楽器や管楽器なんて、弾く場所もなかったし、楽器を手にいれることなんて考えもしたことがなかった。やっぱり楽器は、小さい頃からそれなりの楽器を手にして、良い先生について、いっぱい練習できる環境がなければ上達しない。自分はそういう家庭じゃないから無理だな。そんなふうに、世の中を理解した気になった。

でも、それは違った。そのときの僕に欠けていたのは学ぶ意欲だった。「小さい頃からそれなりの楽器を手にして、良い先生について、いっぱい練習できる環境があれば上達する。」そのことがわかったなら、それを自分で作りにいけばよかった。どれだけ大変であっても、自分から求め、学びにいけばよかったのだ。

幸いなことに君たちはすでにそんな環境を持っている。とってもうらやましい!でも、だからこそ僕は言いたい。君たちはそれを目一杯活用できているだろうか?その環境を120パーセント使い尽くしているだろうか?

僕の恩師の鈴木寛先生は、東京大学と慶應義塾大学の授業でいつもこんなことを言う。「太鼓は叩かないと鳴らない。強く叩けば強く鳴る。良い叩き方をすれば良い音が鳴る。しかし叩かなければ、決して鳴りはしない。」

これは太鼓の叩き方の話をしているように見えて、「学ぶとはどういうことか」ということを言っている。強く求めること。自分から動いてみること。そうすれば必ず得るものがあるよ、と。

学問と同じく、音楽をやるうえでも同じだと思う。良い奏者とはうまい奏者のことではない。与えられたものをめいっぱい吸収しながら、自分から「もっと・もっと」を求めていく人のこと。つまり、バッサリと言ってしまうと、良い奏者とは学ぶのがうまい奏者のことだと思う。

しかも、オーケストラは一人で出来るものではないから、そこに「他人とうまくやっていく力」や「チームを作り上げる力」も必要になってくる。つまり、ONE FOR ALLということ。 自分がたくさん学んで成長するだけでなく、みんなのために自分が何を成すか、ということがとっても重要になってくる。このことは書き始めるととっても長くなるから、次の記事で書くことにしよう。

とにかく、この文章で何が言いたいかっていうと、学び上手であることが大切だよってこと。学ぶことは、楽しいことだ。僕は当時のピアノの先生に「子供だから」無理だと言われたけれど、むしろ逆で、「子供だからこそ」出来ることがあると強く信じている。子供だからといって僕は手加減しない。スポンジに水をふくむように、君たちは驚くべきスピードでぐんぐんと吸収できる。いますぐに理解できなかったことも、あとから必ず生きてくる。

いつまでも学ぶのがうまい人たちであれ。音楽も、学校の勉強も、そこに垣根をつくらず等しく学べる人であれ。そして、「もっともっと」を求め続ける人たちであれ。

 

相馬子どもオーケストラと。ある日のリハーサルより。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です