5月22日の東京文化会館コンサートのために執筆したプログラムノートを掲載致します。「パリの痕跡」というテーマを浮き彫りにするような形で執筆することを目指したものです。あくまで他のプログラムノートとの比較・連関によって成り立つ解説になっています。また、コンサート当日のプログラムノートは、こ こに掲載させて頂くものから随分とカットした短縮版になっています。転載歓迎ですが、ご一報頂くか出典として本サイトに言及頂けたら幸いです。
アストル・ピアソラ「フーガと神秘」
ピアソラは1921年、アルゼンチンのマル・デル・プラタにて生まれた。8歳のころ、タンゴ好きの父親からバンドネオンを買い与えられ、すぐさま頭角を現した彼は、ブエノスアイレス指折りのタンゴ楽団に入団し、のちに自分の楽団を持つまでになる。1941年にブエノスアイレスを訪れていたアルトゥール・ルービンシュタインからヒナステラを紹介され、ヒナステラのもとで五年間、音楽理論や管弦楽法を学ぶ。しかし「(主に酒場などで)踊るための音楽」として制限が多かったタンゴに限界を感じ、ピアソラは楽団を解散。自分の音楽を模索し、1954年からパリに留学することになる。パリではクラシックの作曲家を目指し、バンドネオン奏者としての素性を隠してナディア・ブーランジェに師事して、フランス式の和声法や対位法を学ぶも、 「あなたの作品はよく書けてはいるけれど、心がこもっていない」と告げられる。「アストル・ピアソラは一体どこにいるの? あなたは自分の国では何を弾いていたの? まさかピアノではないでしょう。」そう問われたピアソラは、自らの経歴を明かし、ブーランジェのまえでタンゴをはじめて弾く。
「ここに本物のピアソラがいる。あなたは決してそれを手放してはならない」
故郷の音楽であり、自らの青春時代、いつも共にあったタンゴ。ブーランジェのこの言葉をきっかけとして、一度は限界を感じたタンゴにピアソラは再び可能性を見出していく。そして、パリから戻ったピアソラは、 バロックやフーガといったクラシックの構造や、ニューヨーク・ジャズのエッセンスを取り入れて、 新しいタンゴ(Nuevo tango)の様式を切り開いていった。まさしく、パリでのブーランジェとの出会いが、作曲家としてのピアソラの方向性を形作ったのである。
本日演奏する「フーガと神秘」は、オラシオ・フェレールの詩によるタンゴ・オペリータ『ブエノスアイレスのマリア』(1968年作曲・初演)の中の一曲である。前半はフーガ、後半はアリアのように書かれており、後半のメロディは、オペリータ中の「カリエーゴ調のミロンガ」から取られている。
ピアソラは、このオペリータを自らの最高傑作として位置づけていたという。「場末の川が無に注ぐところで」「神が酒に酔ったある日に」生み落とされた主人公のマリア。「忘却の女」と呼ばれた彼女は、多くの移民たちと共にブエノスアイレスに移住し、キャバレーやクラブでタンゴを踊って栄光の日々を過ごすも、次第に身を落とし、死を迎える。そして埋葬されたマリアの「影」が、ブエノスアイレスの町をあてどもなく彷徨う。マリアの影はいつしか身ごもり、日曜日のブエノスアイレスの建築中のビルの頂上、コンクリートの上で出産する。生まれて来たのは、幼子マリアであった…。
マリアが自分自身のことを歌い上げる、Yo soy mariaの歌詞を一部引用しておこう。
Yo soy María
De Buenos Aires
De Buenos Aires María, yo soy mi ciudad!
María Tango, María del arrabal,
María noche, María pasión fatal,
María del amor de
Buenos Aires soy yo!私はマリア ブエノスアイレスのマリア、
私は私の街!
マリア・タンゴ、場末のマリア、
夜のマリア、死を招く情熱のマリア
ブエノスアイレスの愛のマリア
それがわたし!
ここに示されているように、主人公のマリアとは「タンゴ」が擬人化された存在であり、本オペリータでは、マリアの生き様を通して、タンゴの誕生と変化、死と復活という歩みが辿られる。そして同時に、ブエノスアイレス -パリを模して作られた都市- という街の多様な側面と歴史が浮き彫りにされるのである。天国でありながら地獄。快楽でありながら猥雑。聖でもあり俗でもある。天使でもあり悪魔でもある。そして、生でもあり死でもある。音楽によって、マリア=タンゴ=ブエノスアイレスが抱えた両義性が描かれてゆく。