危機の自省録

息を整えてお湯を注ぐ。ふうっと膨らんでくる豆に魔術的なものを思う。珈琲を自分でゆっくり淹れる時間すら無くなっていたことに気づく。珈琲は褐色の魔術師。高校生のころお世話になっていた神戸の喫茶店にかかっていた額の言葉を思い出す。泡立ちを見つめるうち、自分の内面と豆の表面が触れ合ってくるような錯覚に陥る。

年末から息つく間もなく、気づけば春に差し掛かっていた。この間、膨大な仕事を重ねた。コンサートを企画したり、指揮したりするとき、リハーサルや本番はもちろん、「それ以前」の準備段階に精髄がある。予定を調整し、奏者に連絡し、移動や宿泊を手配し、演出や字幕の打ち合わせを重ね、自分の楽譜の勉強に邁進する。とくに楽譜を勉強するということは、当然「何かをしながら」片手間にできるようなものではなく、誰の声も届かないところにこもって連絡を断ち、ひたすらその楽譜が生み出す世界に入り込み、作曲家と、その時代と、それを演奏する自己との対話に没頭しなければいけない。他の人はどうかわからないが、少なくとも僕はそうだ。もっともそれは「理想」であって、現実にはノイズキャンセリングイヤフォンをして、街のカフェで楽譜を開くことも多いのだけれど。

他者と対話する時間は、僕にとって楽しいものだ。イタリアの友人たちほどではないにせよ、お喋りするのは好きだし、どんなに些細な話だって興味がある。なんの準備もいらずに対話をはじめることができる。でも、作品と、自己と対話する時間は、そうはいかない。

たくさんの準備がいる。静謐を獲得せねばならない。移動する時間も、寝ている時間も、その作品のことをぼんやりと考え続ける。降霊術のように内側から「いまだ」という瞬間を呼び起こし、捕まえる。そのときにすぐに楽譜を開くことができれば、もう何時間でもその世界に入っていられる。これまで見えてこなかった構造が、エモーションが、ポエジーが、開くと立体的に広がる絵本のように鮮烈に立ち上がってくる。そんなときはいくらでも遠くに行けそうな気がする。コーヒーさえあればあとは何もいらない。

………

いつもならばそうしてこの文章を締めくくることだろう。だが、今日はそれが出来ない。それだけの時間をかけてきたものたちの多くが、昨今のコロナウイルスの影響で続々と中止になりつつあるからだ。本当に、残念でならない。見出したものを音にして聞いて頂きたかった。やり場のない悲しみを覚えつつ、とはいえ人命に関わることであるから仕方ないということも理解してはいる。なるほど、コンサート空間というのは閉鎖的で多くの人が滞在する場所であるから、感染のリスクは高いだろう。それが満員電車とどう違うのかは分からないが。

納得できないことの一つは、中止になったものに対して出演者たちに何の手当ても説明もない状況が横行していることだ。フリーランスの音楽家たちの中には、公演がキャンセルとなり、頂けるはずだった収入を全て打ち切られ 三月・四月の収入が全く無くなってしまった人もいるという。リハーサルや本番が出来なくなってしまったとはいえ、その決定はあくまで主催者の判断・都合によるものだし、ましてや我々の仕事はそれ以前の「準備」に多くのエネルギーがかかるものだということを互いにしっかりと理解し合わなければ…。

それにしても、「イベントの自粛」なる唐突で曖昧な要求によって責任を宙づりにする文言。公演を敢行すれば批判に合う。自粛すれば主催者は破綻に向かうか、出演者の泣き寝入りを余儀無くされる。出演者のみならず、劇場で働く人々の板挟み状況や奔走も察するに余りある。どうしてこんな状況が生まれているのか?主語を大きくしすぎであることは承知のうえで、この国の文化・芸術に対する理解について考えざるを得ない。舞台に立つ人・舞台を作る人たちが、もっともっと文化政策の実際に関わっていかなければならないのではないか?この状況に泣き寝入りするのではなく、自ら立ち上がり、連帯し、動いていかなければならないのではないか…?

コーヒーをもう一杯。コロナウイルスのせいで不意に訪れた空白の時間本当だったら今この時間には「カルメン」を、「魔笛」を、「椿姫」を指揮していたはずだったんだけどな。危機をチャンスと捉えて、ただ不平を述べるのではなく建設的な未来を考えたい。音楽に何が出来るのか、あるいは、それすら烏滸がましいとすれば、そもそも音楽とは何であるのか。音楽の中身を問うだけでなく、音楽という行為そのものについて考えることが一層強く必要とされている。今が、大きなターニングポイントになる気がしている。

 

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