関わって四年になる、Commodoの2016年チャリティーコンサートを終えました。音楽は本質的に「祈り」に近い。祈そのことを頭ではなく肌で理解させてくれたのは、このCommdoとの出会いでした。
震災の一年後、宮城県の公民館で演奏させて頂いたときのことを今もまだはっきりと覚えています。海に背中を向けて咲く一輪の向日葵。そこにあったはずの建物が一切無くなって、ただ白砂の呆然とした光景だけが広がる様子。遮るものがないゆえに、波の音が遥か遠くまで響いてくるあの残酷さ。
音楽の無力さを感じながら、しかしそれでも、たった一人でもいいから届けと祈りながら演奏すること。特定の宗教への信仰を持たなかった私が、「祈る」という行為に自然と至っていました。祈りは叫びとは全く異なります。祈りを成り立たせる前提は、自らの行いが無力であることを認識することにある。その時に立ち現れる、最も強い呼びかけが「祈り」という振る舞いなのです。(余談ですが、私に詩を教えて下さった小林康夫教授は、言語の中で最も強い呼びかけの形が「詩」であるとおっしゃっていました。その意味で詩というのは祈りと必然的に結びつく。そういって、フィリップ・ジャコテの一節を読み上げて下さったあの瞬間を、今も忘れることが出来ません。)
その経験をしたときに、亡き師・村方千之がいつも語っていた、「心から心へ届くように」というあの言葉が腑に落ちたように思います。上手下手といった「技術」の問題はもちろん大切で、それ無しでは音楽なんて出来ないのだけれども、それだけではいけない。技術を磨いた先に、言葉に表しがたい祈りが宿るかどうか。一体感とか、方向性とか、convivialitéとか、様々な言葉で変奏している「何か」。指揮者が最終的に導くべきものは、この次元、詩=祈りを宿すことにあるように思います。
四年間の日々に、たくさんの大切な人たちと出会い、たくさんのことを教わりました。モーツァルト、ドビュッシー、チャイコフスキー。「小組曲」は石巻で見たあの静かな夏の夜を、「花のワルツ」はある施設でこの曲が流れていたことを思い出しながら振りました。アンコールには、宮城県の「花水木」という施設で出会った一人の方に向けて選んだヴォーン=ウィリアムズのRhosymedre、そしてCommodoでいつも演奏し続けてきたYou Raise Me Upを。終演後、客席で聞いて下さった皆さんが目を真っ赤にしながら会いに来て下さったのが本当にうれしかったです。
四年間本当にありがとう。一つの終わりがまた新しい始まりとなりますように。