明後日に貴志康一「仏陀」交響曲の本番を控えて、まっさらな気持ちで楽譜を読み直している。作り込んですべて忘れる。「読む」というよりは、むしろ「書く」感覚に近い。いま自分が作曲していくかのように楽譜が立ち現れるかどうか、それが自分にとっての勉強のバロメーターだ。
そうしていくと、引っかかるのはやはりCäsur-Caesuraの問題だ。貴志の管弦楽作品にはこのCäsurが頻発する。ヴァイオリン協奏曲を指揮した時もここに随分と頭をひねったものだ。いったいどういう意図で、どういう音響を狙って?貴志康一が生きていたら、貴志康一の自作自演が残っていたら、私はまずもってこのことを本人に聞いてみたい。
Cäsur-Caesura、元来は「切り取られた時間」を意味し、「中間休止」と訳されるもの。古典詩においては、詩行のあいだに挟まれる「切れ目」であり、音楽ということばに転化されると、小さな休止・テンポの切れ目をあらわす。長さは定まっていないが(定めることはナンセンスであろう)フェルマータよりは短くブレス記号よりは長い、とされる。記譜上は、ダブルスラッシュで表されることが多い。
今目の前にある「仏陀」交響曲楽譜がどこまで本人の意図を反映したものかという問題はさておき(「仏陀」交響曲の浄書は、貴志の師のモーリッツの手が大きく加わっている)楽譜をそのまま見つめると、このCäsurにあたるものが頻発することに注目せざるを得ない。このCäsurをいかにして作るかで、全体の設計が大きく変わってしまう。そしてよく見れば、「仏陀」交響曲におけるそれらは3つのパターンに分けることができる。
1.Cäsurと書かれた下にフェルマータ記号が付されているところ
→ 1楽章練習番号4,8,27,31。3楽章練習番号2前、23前、32前。
2.Cäsurの記載なし。ただし小節線上(しばしば転調前のダブルバー)にはフェルマータが書かれている。
→1楽章練習番号13,21、最後の音のあと。4楽章練習番号6。
3.kurze cäsur(短い中間休止)と書かれた下にフェルマータ記号が付されているところ
→「仏陀」3楽章練習番号19前のみ。
※第2楽章、第4楽章にはCäsurなし。
Cäsurの下にフェルマータ記号が書かれている、という時点で些か異例であるが、ともあれ、この3種類は意図的に使い分けられていることが明らかだ。全体の構成、形式、求める音響時間の設計のために3種類の使い分けが成されているのだ。それでは、このそれぞれはどのような効果を狙っていて、どのように作るべきだろうか?
まず、3.は一箇所のみの例外的なものであり、扱いにも苦労しない部分であるため、議論の対象には挙げない。前後の関係からここの余白は必然的に定まってくる。次に2.については、用いられる場所の前後にtenやritなどテンポが緩む指示があるか(1楽章練習番号13,21)空間に放たれた響きの残滓を扱うためににある程度の時間を必要とするような音が存在する場合(1楽章最後の音のあと、4楽章練習番号6)に用いられていることがわかる。
とくに後者、響きの残滓をコントロールするためのフェルマータの扱いは面白く、1楽章最後の音が終わった後のダブルバーにこれを記載するのは、1楽章と2楽章の間隔をどれぐらい空けるべきかという指示そのものであろう。作曲家によっては、もう一小節付け足して休符にフェルマータを書くことがあるように、それと近い効果を狙ったものだと思われる。(従って、それなりの時間・空間的休止が必要になる)
前者、つまりは「テンポ変化のちのダブルバー上フェルマータ」は、「仏陀」交響曲においては1楽章展開部に集中している。
(※「仏陀」交響曲第一楽章は序奏つきのソナタ形式。教会旋法にくわえて西洋型の音階と東洋型の音階を交互に挟んだ「エピソード」部分を含む)
展開部の該当箇所は、
練習番号12 – 展開部序奏
練習番号13 – 第一主題展開
練習番号20 – エピソード展開
練習番号21- 第一主題を用いたフガート
となっているのだが、問題のダブルバー上フェルマータは、まさにこの第1主題展開およびフガート部分の前に記載されている。構成を考えると、この展開部の展開の仕方は(ネガティヴな意味ではなく、独自という意味で)やや強引なところがあるのだが、それをさらに際立てているのがこのダブルバー上フェルマータであろう。tenやritによって序奏部(12-13)ないしはエピソード部(20-21)が遠くに去っていって、静寂が訪れる。次に何が起こるのか、どこに向かうのかわからない方向喪失の感覚。緊張のうちに神聖なフガートがはじまり、一気に展開を見せる。そういう効果を求めたものだと思われる。
最大の問題は1。つまり「Cäsur+フェルマータ」のパターンである。まず3楽章におけるこの記載の用いられ方から見ていくと、3楽章練習番号2前(morendo)23前(cresc)32前(cresc)と必ずその前に音量変化がある。2前については、序奏的な部分が終わって主部に入る前の一瞬の空白を求めるものとして自然に解釈できよう。23前については、ストレッタで音楽的にも音量的にも圧縮されたあとに23からpに落ちるうえでの一瞬の間、つまりSubito p的な効果を狙ったものとして捉えられる。32前は、打楽器を除いた全楽器がfffからcrescしたところに「Cäsur+フェルマータ」で、そのあとに低弦による主部再現。これは扱いに少し悩むが、おそらくは一小節のうちに激しいcrescをかけて空間に音を充満させたのちに断ち切り、音は消えているものの余韻だけが肌に残っているうちに次の展開を行え、ということではないかと解釈している。だとすれば、その一小節は完全なin tempoではなく、crescのための時間が求められるが、貴志はこの前にpoco ten- sempre ten!(本当に!が書かれている)を書いているので、このcresc小節にある程度の時間をかけて引き延ばすことは恣意的な解釈とはならないだろう。
ここまででも相当に長い文章になってしまったが、考察したいのはここからだ。1楽章における「Cäsur+フェルマータ」のパターンを用いた部分の扱いについて。1楽章は序奏つきのソナタ形式として構成がはっきりしているので、2.のパターンと同様に、まずは構成の面から見ていく。ざっくりとした(本当にざっくりとした)見取り図は以下。
冒頭〜練習番号4 – 序奏
練習番号4〜練習番号8 – 提示部 第一主題
練習番号8〜練習番号10 – 提示部 第二主題
練習番号10〜練習番号11 -提示部 エピソード1. 音階を用いて
練習番号11〜4小節間 - 提示部 エピソード2. 旋法を用いて
練習番号11の4小節あと〜4小節間 – 提示部 エピソード1.2の融合 全音階とジプシー旋法
練習番号12の4小節前〜練習番号12– コデッタ展開へ接続
練習番号12〜練習番号13 – 展開部 序奏
練習番号13〜練習番号20の2小節前 - 第一主題と第二主題の展開
練習番号20の2小節前〜練習番号21 – エピソード部分の再現、2楽章の「マヤ夫人」主題への連結
練習番号21〜練習番号22 – 第一主題を用いたフガート
練習番号22〜練習番号23 – エピソードを用いた拡大
練習番号23〜 練習番号27 – 再現部 序奏
練習番号27〜練習番号31 – 再現部 第一主題
練習番号31〜練習番号32- 再現部 第二主題
練習番号32〜練習番号33- 再現部 エピソード1
練習番号34〜4小節間- 再現部 エピソード2.
練習番号34の4小節後〜練習番号35 – 再現部 エピソード1.2の融合
練習番号35〜最後- コーダ 冒頭序奏と近似。
ここで、問題の「Cäsur+フェルマータ」が用いられる1楽章練習番号4,8,27,31を整理すれば、
パターン1.<序奏→主題への接続>1楽章練習番号4&27
パターン2.<第一主題から第二主題への接続>1楽章練習番号8&31
というふうに組み合わせることができる。4は序奏から提示部に移る前、27は再現部序奏から再現部に移る前である。8は提示部第一主題から提示部第二主題へ、31は再現部第一主題から再現部第二主題へ移る前にあたる。そして、このいずれのパターンにおいても、「Cäsur+フェルマータ」にはStringendoの表記があり、テンポが前向きとなることが共通している。
まずはパターン2から見ていこう。パターン2は、第一主題から第二主題への接続のあいだに置かれたもので、四小節間のstringendoを伴った同音型をその前に持つ。普通のソナタ形式として見れば、第一主題から第二主題の接続にあたる部分が欠如しており、移行としては唐突であると言わざるを得ない。そのために、この「Cäsur+フェルマータ」は、第一主題から一瞬の切断を経て第二主題に飛び込むような、映画のストップモーションのような-貴志は映画も撮っていた-効果を持っているように思われる。切断時間をどれだけ取るかについては遊びの余地があるものの、その前の作りとしてはある程度流れが決まった部分だといえる。(個人的には、鋭い響きのなかに涼やかに紫を投げ込むような、そんなイメージで指揮している。)
最後にパターン1。これが悩みのタネであり、前後の関係性の設計に大きく依存するCäsurである。序奏から主題に入る前の空間をどうやって作るべきか?序奏テンポ58と主題テンポ1260-132の関係性は?stringendoでどこまでのテンポに至るのか?stringendo,molto stringendoが連続するとはいえ、闇雲にstringendoをかけては弦楽器の上昇音形が聞き取れなくなる。しかも動きのある1st Vn, 2nd Vnの最後の音価はG♯の4分音符。これをしっかり鳴らしたいし、全楽器がcrescするための時間も必要になる。 一方、cis-moll(!)の主題最初の音をしっかり鳴らすためには、ここに飛び込む前の時間もある程度必要になろう。しかしHarpの音形も考えれば不自然な時間は取りえない…。ここで貴志はどのような響きを求めたのか、それだけがまだ見えてこないのだ。貴志康一演奏の大家・小松先生の録音を参考に拝聴しても、この部分については、そのときどきで先生も様々なパターンを試されているように思われる。
もちろん今の私なりの解決策はある。ヒントになったのは、自分の場合やはり「イメージ」だった。崇高な存在が雷鳴の中に姿を現すということ。それが果たして有効に機能するかどうか。今日一日、そればかり考えて過ごしている。自分が生きているあいだにあと何回この曲に挑戦できるだろう、と生の短さを思いながら。