35歳で自分は死ぬのだと思っていた。根拠はない。何かに影響されたわけでもない。ただ何となく、35歳まで生きることができたらいいと思って過ごしてきた。だからこの年になるまでは後先のことなんて考えず、目一杯走って、学んで、ここで尽きたとしても後悔のない人生だったと言えるようにしようと思っていた。
それは賭けのような生き方なのかもしれない。取り返しがつかないこともあろう。それでも、人生において「何かを賭けたことがあるか」ということは、その成否以上にとても重要なことに違いない。小学生の頃からそんなふうに考えていた。
賭けるということは強く求めるということと不可分で、そのとき僕は、勅使河原蒼風の「奥義」と題されたこの一節を思い出す。
求めていなければ、授からない。だから、いつでも求めていなければならない。自分にだけ授かるものが、どこかにある。それを授かるのはいつなのか。ついに授からないかも知れないが、求めていなければ授からないのだ。(勅使河原蒼風「花伝書」)
賭けて、求め続ける。奥義のそばにいようとする。35歳で死ぬだろうという根拠なき思い込みは、自分が大胆に賭け続けるための最高の武器だった。
だが、僕は35歳になっても生きている。大怪我をしたり体調を崩したりしたこともあったけど、むしろいまが一番充実している。バタバタと人が倒れていくこの世界のなかで、自分は奇跡的にまだ生かされている。
35歳まで思うままに生きるという、自分で定めた第1フェーズは今終わりを迎えた。35年生きて、自分が何を成すべきか、自分に与えられた役割が何であるか、ほんの少しだけ分かるようになった。そろそろ次のステップに向かっていくときが来た。
最近、「空を飛ぶ鳥の影は動かない」という中国の一節に出会った。「飛んでいる矢は止まっている」という、ゼノンのパラドクスのひとつと同じことを表している、と解説されることが多いこの一節だが、僕はこれをもっと豊かなイメージとして読みたいと思う。
鳥があのように悠々と飛ぶことができるのは、自分が大地にしっかりと紐づいているという感覚があるからだ。空を駆ける鳥は、自由気ままにあちこちへ渡っていくように見えて、大きく見れば、ただ一つの問題をめぐって旋回しているのだ。
35歳を迎えて、僕は自分が大地に投げかける影を見出すことができた。その影に気づくことができたのは、影すら見えなくなるような、この数年のコロナ禍の「夜」の日々を過ごしたからだった。
影を発見する。夜が明け、陽が射しはじめた今、足元には確かに自分の影がある。以前よりも濃く、くっきりとした影を見る。だからどこまでも飛んでいくことができるだろう。もっと高くへ、遠くへと。