存在の天使たち

ブラームスのブラームスらしさとは何だろう。触れた人なら誰でも少なからず味わうような、確かに存在する「ブラームスらしさ」。しかし言葉にならない「なにものか」。「ブラームスが分かるようになるのは80歳ぐらいだな」と笑っていた亡き師の大きな掌を思い出す。いまここで青い私がブラームスを論じることができるなどとは到底思えない。しかしそれでも、ある演奏が与えてくれた感動に突き動かされ、筆の向くままに言葉を綴っておく。

ブラームスのブラームスらしさに対して言葉を与えるならば、「呆然」という要素に集約されるように思う。ブラームスの音楽。そこに宿るのは、巨大さよりは崇高さ、無限なものの体感であり、圧倒的な「密度」の到来だ。ブラームスがチェロソナタで取り入れたフーガに思いを馳せる。フーガというものを生み出しただけで人間は凄い。フーガは理性の結晶であると同時に、理性を超え出る瞬間を目指す構築物ではないか。徹底的に理性的に積み上げて行ったものが、結果として理性を超越する。圧倒、すなわち、いつしか理性のリミットを超えてゆく。

このチェロソナタにおいて、一本の細い線がフーガによって編み上げられて高まって行くその様子は、巨大さというよりむしろ、小手先の感覚や音量の大小とは全く異なる感覚を我々に与える。波の塊がじわじわと迫り、押し寄せるような密度。たとえフーガの形態を取らずとも、ブラームスの交響曲や協奏曲には、かくのごとき密度が織り成す崇高の要素をしばしば感じるのだ。

そして、密度が押し寄せたあとに去る引き際の虚ろさ。私がブラームスの音楽で痺れるのは、まさにこの瞬間にある。いまのは何だったのだろうか、という呆然。たとえば夏から秋へ変わったときに覚える肌の震え。過ぎた日々を思い、心を揺らした時間を追い求めるあの感覚。

私なりに定義するならば、「呆然」とは、今の瞬間を考えられなくなることだ。呆然のなかで人は時間の隙間に身を投げ入れる。未来へ、未来へと向かって流れ続ける音楽のなかに身を浸しながら、人は現在と過去のあいだを往復する。ここで大胆に言い切ってみよう。ブラームスのあのブラームスらしさとは、呆然という感覚を通じて、聞くものに現在と過去への往復を与えるところにある、と。

ブラームス、ブラームス。
坂を下りながら、遠くにヘルダーリンが聞こえた。

À la lumière d'hiver - Anges de l'être
À la lumière d’hiver – Anges de l’être