夜、それは孤独より遅く

時間を忘れて何かに熱中する、という体験が自分にとっては生き甲斐みたいなものなのだが、そうするとやはりそれは「夜」でなければならない。朝から夕方は時の移ろいが分かりすぎてしまうから。夜は、時の流れを置き去りにしやすい。

一年前の今頃に「孤独の活かし方」という高校生向けの講義をして以来、孤独についてずっと考え続けていた。表現者はどこかで孤独に向き合わなければならない。それは絶望的に終わりのない探索の時間。息を止めて潜り続けるかの如き没入。肺に残った僅かな酸素で最後の言葉を紡ぎ出すような感覚。つまり、どれだけ深い「夜」を過ごすことができるかということ。

たとえば目の前にある楽譜と同化しようとするとき、自分にはこの時間が欠かせない。どのタイミングでそれが訪れるかはわからないが、その訪れを直感した時には、他のあらゆるものを投げうっても掴みたいと思う。

そうしてひとりだけの静かな夜を幾晩も過ごして、布団に入ってからは枕元に置いてある一冊を読むのがこの一年の密やかな楽しみだった。それはヘッセの『庭仕事の愉しみ』。ヘッセはここで、達観した穏やかさをもって、庭や植物を育てることの愛しさや、変転のなかの不変を描いている。

コロナでコンサートがたくさん無くなり、家にいる時間が増えたからだろうか。それとも孤独のことを考え続けていたからだろうか。この一冊は今の自分にとりわけ深く刺さった。たとえば最も有名なこの詩は、「不要不急」とされて制限されていったものたち、演奏会、運動会、旅……つまり、人間を人間たらしめる豊かな「余剰」への賛歌であるように読めてしまう。

桃の木が満開だ
どの花も実になるわけではない
青空と流れる雲の下で
花たちはやわらかにバラ色の泡と輝く。

桃の花のように想念がわいてくる
日ごとに幾百となく
咲くままにせよ 開くままにせよ
実りを問うな!

遊びも 童心も 過剰な花も
みんななくてはならぬものだ
さもないとこの世は小さすぎ
人生になんの楽しみもないだろう。

   ヘルマン・ヘッセ「満開の花」(『庭仕事の愉しみ』所収)

だが、それだけではない。僕はこの書から一つの姿を立ち上げる。それはヘッセが、自らのうちに燃える激情を見事に飼っている姿だ。庭仕事をする初老のヘッセは、通説的なイメージのように穏やかで超然としたひとではないと思う。あたたかな文章の奥に激情が燃える。「こんなことをして意味があるのか?」という創作者としてのアイデンティ・クライシス、視力を失いつつあることへの絶望と焦り、世の中への不満、人間の愚かさに対する憤り、そうしたものが横溢している。内側に燃える激情をうまく手なずけるために彼は庭を必要としたのだ。

「世界はもう私たちにはほとんど何も与えてくれません。世界はもう喧騒と不安から成り立っているとしか思えないことがよくあります。けれど、草や樹木は変わりなく成長しています。そしていつの日か地上が完全にコンクリートの箱でおおいつくされるようなことになっても、雲のたわむれは依然としてあり続けるでしょうし、人間は芸術の助けをかりてそこかしこに、神々しいものへ通じるひとつの扉をあけておくでしょう」(同上)

ヘッセは、芸術自体を神々しいものと称誉しているのではない。芸術とはあくまで、「そこ」に通じる扉をあけるための導きであり橋なのだ。それは本当に些細で脆い橋なのかもしれない。しかし、ひとは橋を必要とする。彼はそのことを、言葉をかえて何度もこの本の中で繰り返している。

ひとは橋を必要とする。日常からの脱出、あるいは自分でない何者かに出会うための導きとして。そのことを信じて、この「夜」の一年を生きた。そして僕は34歳になった。もうすぐ自分なりの橋が架かる。きっともうすぐ、夜があける。

夜、それは孤独より遅く

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