一人の男が人生を音楽に捧げるとき:ヘルマン・シェルヘンの肖像

カリンニコフの一番を勉強するうちに、巷に出回っているこの曲の録音はおそらく大体聞いたように思う。中でも飛び抜けて素晴らしいと思ったのがヘルマン・シェルヘンの録音だ。シェルヘンは何となく「奇抜な」解釈という印象や先入観を持っていて、カリンニコフ以外の録音についても自分から聞くことはあまり多くない指揮者だった。そして、このカリンニコフの録音を聞いて、そんなふうに思っていた自らの不明を強く恥じた。なんと明瞭で緻密な演奏だろうか!

確かにラディカルにも思えるほどテンポは揺れるし、いわゆる「綺麗な/心地よい音」ではないかもしれない。けれどもそれは、(スコアを勉強してみると良くわかったのだけど)細かなアナリーゼに基づくものであり、曲の構成を見つめてそれを鮮やかに浮かび上がらせるような、論理の通った必然に貫かれている。たとえば一楽章のファゴットのスタッカート、最後のオーボエのスラーのかかり方など、アーティキュレーションの意味がこれほど細かに聞こえてくる録音はほかに無いだろう。情感を失わず、しかし情感に溺れることもなく、和音や調の移り変わりが極めて鮮やかに描かれる中で、見落としていた細部の魅力に打ちのめされる。そしてその細部こそが、この曲の生命を構成していたことに気付かされる。

もちろん私はこんなふうに演奏することは出来ないが(おそらく誰も出来ないだろう)カリンニコフの一番を考えるとき、目と耳を開いてくれる演奏であることは間違いない。そんな演奏を、1951年という戦後まもない時期に残したヘルマン・シェルヘンの知性と感性に感動した。

こうなるとその「人」のことを知りたくなるものだ。シェルヘンはどんな人だったのだろうか。考えてみれば指揮姿だって見たことがない。そう思って調べて行くうちに、シェルヘンを描いたドキュメンタリーの存在に出会う。1966年、リュック・フェラーリによるQuand un homme consacre sa vie à la musique :Portrait de Hermann Scherchen (一人の男が人生を音楽に捧げるとき:ヘルマン・シェルヘンの肖像)というものがそれだ。タイトルを見て本当に驚いた。実は、数日前にふと出会ったロシア語の文献に、カリンニコフが「音楽に人生を捧げた若者」という表現で記述されていたからだ。

もちろん、この一致は偶然に過ぎないかもしれない。しかしとにかく、スクリーンにうつされるシェルヘン、「フーガの技法」を指揮するその姿はいわば「削り抜かれた」もので、独特の神々しさを湛えていた。シェーンベルクとバッハ。すべてをその手のうちに入れており、こうあるべきだという明確なゴールが頭の中にあるのが伝わってくる。この棒から、この眼差しからあのカリンニコフが生み出されたのだと思いながら、射抜かれるように見続けた。

そしてそれは、シェルヘンの死の三ヶ月前のリハーサルであった。半ば呆然としながら、音楽に人生を捧げるその生涯を思う。カリンニコフとシェルヘンが再び重なってくる。

 

花のアーティキュレーション
花のアーティキュレーション(Lumix GH4+Nocticron 42.5mm)