カリンニコフ研究 Part1(手紙と生涯)

12月に指揮する福井大学フィルハーモニー管弦楽団のメイン曲がカリンニコフの交響曲第1番なので、ここ数ヶ月ずっとカリンニコフを勉強している。楽曲の和声・構成的なアナリーゼはもちろん、カリンニコフ自身の手紙を探したり、正岡子規とカリンニコフの運命的な一致に驚かされたり、頭の中のほとんどがカリンニコフに占められるような日々(友人曰く「ニコ中」)を過ごしている。

28歳のころに書かれた天才の作品を28歳で勉強できる僥倖!才能が違いすぎて比較するのも失礼だけど、こういう一致はちょっと嬉しくて、ある種の巡り合わせを思わずにはいられない。しかし一体、この曲はどういうふうに演奏すべきなのか?この曲で彼は何を表現したかったのか?もっと限定的にいえば、この曲は「死」と「生」に対してどれほどの距離にあるのか?

「このように悲惨な生涯であったのに、交響曲1番はそれを感じさせないようなエネルギーに満ちている」あるいは「メロディの美しさにすがった佳作」というような、しばしば言われる解釈や批評は、私にはどうも直感的に納得出来るものではない。はじめて楽譜を見たとき、思わず震えてしまうほど、恐ろしいまでの意志の力や、叫びのようなものが立ち上がってくるのを感じた。それはあるオーケストラのコンサートツアーの移動中のことで、プノンペンからシェムリアップへ旅する高速バスのなか、一楽章から四楽章まで読み通したあとに人目も憚らず涙した。これほど人生が色濃く宿され、苦闘と叫びと祈りに満ちた曲があるだろうか、と思ったことをよく覚えている。ト短調という、モーツァルトの場合においては死を予感させる調性。楽曲分析を加えながら読み込むにつれ、一層それを強く感じるようになった。けれどもそれが単なる思い込みであってはいけない。この曲からどこまで彼の生涯を読み込んで良いのか、そのことを調べねば、と思った。

そしてカリンニコフについて調べて行くうちに、実際のところ、日本語で読む事ができるカリンニコフの研究書や情報源というのはあまり多くないことも分かってきた。そこで、ロシア語が不得手な身としては無謀ながら、自分のための整理も兼ねて、この機会にカリンニコフの交響曲第1番について勉強したことを纏めておきたい。共演する福井大学の皆さんや、これからカリンニコフを演奏する演奏家の方々にとって参考になれば幸いである。

 

まずはカリンニコフの手紙から。極貧の中でヴァイオリンやファゴット、ティンパニを演奏し、26歳でやっとマールイ劇場の指揮者の職を得たかと思えば翌年に結核を発症。職を辞してヤルタに移って静養生活を送らざるを得なくなり、病魔と闘いながら作曲を続けるも、35歳という若さで命を落とすことになったカリンニコフ。その生涯において2曲しか「交響曲」を残さなかった(残すことが出来なかった)ことを考えれば、この交響曲第1番は彼にとって、ある意味で集大成であり、彼の人生が色濃く投影されているものだと考えることは荒唐無稽ではないはずだ。だとすれば、楽曲分析と並行して、彼の生涯や、彼の状況を追う事も必要不可欠であろう。そこで、まずはカリンニコフ本人が綴った「手紙」に注目して、当時のカリンニコフ本人の姿を立ち上がらせておきたい。

 

 

カリンニコフの交響曲第1番が作曲されたのは1894-1895年にかけて、肺結核の治療に訪れていたヤルタにて。初演はキエフ、1897年。楽譜の出版は1900年。そのころの手紙をいくつか引用してみよう。

1894年9月28日の手紙。

музыка. есть, собственно, язык настроений, то есть тех состояний нашей души, которые почти не выразимы словом и не поддаются определенному описанию. Мне всегда несимпатичны были ясные, определенные словно математические программы для музыки. Автор всегда рискует быть смешным, пытаясь выразить своей музыкой такую программу, и только в лучшем случае, то есть если он очень талантлив и в совершенстве владеет техникой своего искусства, может рассчитывать на внимание. Прав был великий Бетховен, не давая для своих произведений никаких ясно определенных программ и ограничиваясь в некоторых случаях только краткими намеками на настроение.(письмо от 28 сентября 1894 г.)

ここには、ベートーヴェンへの敬意と共に、カリンニコフの音楽感のようなものが端的に表明されている。音楽は、数学的な要素を表す存在ではなく、感情の言語なのだ。精神状態というのはほとんど言葉で表現することもできないし、名状し難きものなのである。そして作者(作曲家)というのは、こうした音楽にしか出来ないことを表すために、ばかげたことに見えるようなリスクを冒さなければいけないのだ、と。

 

交響曲第1番の献呈先であったクルーグリコフに宛てて書いた手紙。試訳を添えておこう。

 Здоровье мое понемногу восстанавливается. Надеюсь совсем вылечиться. Климат здесь прекрасный, и живется мне пока недурно. Работаю пока мало — болезнь мешает, но собираюсь писать много: музыкальных планов и мыслей имею массу.(14.I.1894.)

 

私の健康は次第に回復に向かっています。完全に回復することを願っています。この地の気候はとても素敵で、住むにはまあ、悪くはないかな。仕事は十分ではありません — 病気(肺結核)が私を邪魔するのです、沢山書くつもりでいるのだけど。音楽に耽り、物思いに沈むことが大部分を占めています。

 

この手紙からは、当時のカリンニコフの回復への意志と、身体が思うように動かない事への苛立ちのような感情を見出すことが出来る。不治の病である肺結核に冒されていたカリンニコフは、交響曲第1番の作曲時において絶望の淵に沈んでいたわけではないのだ。死の予感というより生に期待する思いが強く滲み出ている。そしてまた、1895年の手紙によれば、

 

Не шутя, добрый мой Семен Николаевич, тяжело мне приходится с финалом… Порой я и всю свою симфонию бракую: и мысли-то у меня скверные, и техники-то мало, и вдохновения ни на грош нет, и т.д., и т.д. Так тошно бывает, что, кажется, бросил бы всё… А потом смотришь — опять потянуло к нотной бумаге, да так, что не оторвешься, и кажется тебе, что ты создаешь что-то новое, хорошее, незаурядное и что растут у тебя крылья.

 

として、カリンニコフ自身と自身の交響曲のすべてを「結婚」させたい(結びつけたい)こと、しかしそれには技術や発想などが足りずに困難していることが描かれつつ、完成したものを見た際にはきっと、いまだかつてなかったものがそこに立ち現れ、「翼を広げるような」(?)気持ちになるであろうことが述べられている。交響曲第1番が循環形式を用いたものであることを想起したとき、自らの人生にせよ、形式・モチーフ上にせよ、彼はこの作品に対して「結びつける」ということを極めて強く意識していたことを読み取れるのではないか。

 

一方で1895年の春、交響曲第1番を書き終えるころの手紙。

Я все более и более начинаю приходить к сознанию,  что «песенка моя», кажется, спета… А впрочем, будем бороться до конца, тем более что в моей душе нет страха перед смертью.

 

«песенка моя»(my song -「僕のお歌ちゃん」とでも訳すべきもの- )が何を指すのか定かではないのだが、これが交響曲第1番のことを指すならば、この手紙は非常に決定的であろう。ここには1894年の手紙においてみられたような、回復を予期するものとは異なるテンションが感じられる。「僕はその意識にさらにさらに近付くことをはじめている。感じるんだ、お歌を…とはいえ。ぼくは最後まで闘うんだ。僕の心の中の恐怖がなくなるまで、死ぬそのときまでだ。」—— つまりこの時点でカリンニコフは、自らの運命に対する闘争を力強く宣言する一方で、死の影を強く感じていることをも表明している。闘争の宣言は同時に、「死にたくない!」という悲痛な叫びでもあるのだ。最初にカリンニコフの楽譜を見た際に、4楽章最後の半ば狂ったような同音同リズムの連続からある種の訴えにも似たものを感じていた私はこの一節に出会って呆然とした。まさにこの声が楽譜から立ち上がってくるのを聞いていた、と思った。「生きるのだ」という力強い宣言と、「生きたいのだ」という悲痛な叫びが、祈りの主題の変奏のなかで交差する……。

 

1895年6月4日、ボロディンの交響曲について述べた手紙。

Перед отъездом из Ялты получил из Москвы две первые симфонии Бородина в 4 руки и впервые с ними познакомился. Вот прелесть! Как: все вдохновенно, понятно, умно и близко сердцу, особенно русского человека! Как бледна перед ними моя бедная симфония и сколь неизмеримо выше они ее! (письмо от 4. июня „1895 г.)

 

ここではボロディンの交響曲を絶讃すると共に、ボロディンの交響曲に比べれば私の「あわれな」交響曲は未熟なものである、という賞賛と謙遜とが描かれている。なお、彼のその交響曲1番は、1897年のキエフにおける交響曲第1番の初演のあと、当時の批評において、第2楽章が «картинка тихой южной ночи, полной очарования и неги»(魅惑と快適さに満ちた平和な南の夜の光景)と形容されたこと、そして1897年の4月20日に交響曲第2番を完成させたあと、彼は«Мне ни разу не приходилось слышать в оркестровом исполнении ни бородинских, ни корсаковских симфоний» すなわち「ボロディンもリムスキー=コルサコフもやったことのないオーケストレーションを生み出した(正確には「聞いた」。病床にあって現実にオーケストラを聴く事が叶わなかった彼は、頭のなかでその音を聞いたのだ)」と書いていることを添えておきたい。

 

1897年の夏、交響曲第1番の初演の大成功を聞いたのち、彼の生まれ故郷であるオリョールに妻と滞在中であった際に送った手紙では、故郷の自然が賛美されている。

Я ведь здесь родился и прожил почти до пятнадцати лет, Каждый кустик, каждая дорожка в парке или тропинка в лесу будят массу воспоминаний и навевают какое-то мирное настроение. Немножко грустно всегда становится от воспоминаний, но все же очень приятно, и я рад.

 

ここで注目すべきは、故郷の自然への賛美とともに、故郷へのノスタルジーが語られているということだ。15歳まで過ごしたこの地のことを思い出すたびに寂しくなるが、しかしそれは良い記憶であった、と彼は言う。ふたたびこの地に戻ってくることは出来ないかもしれない、という予感か、それとも、いまだ回復への気持ちを抱いていたのか。ここから具体的なことは分からない。しかし1899年ごろになると、カリンニコフの体調は急激に悪化していたようだ。一日中寝ていることを余儀なくされ、毎晩39度ないしは40度近くの熱にうなされ、それでも彼は楽曲(オペラ)を書き続けた。

У меня теперь, например, — пишет он Мамонтову в октябре 1899 года, — стоном стоит в голове 2-й акт (сцена народного подъема духа в усадьбе). Так вот и сел бы за нотную бумагу и писал бы, писал свои нотные каракули, но… Это теперь положительно невозможно. Приходится налагать на себя узду, и вот я ложусь в постель и думаю, думаю без конца… Ах, если бы Вы знали, как я боюсь, что не успею до конца жизни кончить всю оперу! Здоровье настолько плохо, что работать как следует нельзя, а кто знает, сколько я еще проскриплю.

 

頭の中に構想はあるのだけれども、今の自分には現実的にこれを書くことが不可能であり、体調の悪さゆえに仕事を続けることが出来ない。「自分の生あるうちにこのオペラ全部を完成させることが出来ないぐらい状態が悪い、ということを知ってくれたら……。」回復を信じていたカリンニコフの筆は病魔に蝕まれてゆく。

 

そして1899年12月31日、クルーグリコフに宛てた手紙の悲愴さたるや!

С начала ноября и по сию минуту я ниоткуда больше не получал ни копейки, что ставит меня в материальном отношении в крайне тяжелое положение… Часто хочется умереть, чтобы развязать всем руки. А то Соню я совсем измучил. Вам тоже не даю покоя. И вообще становлюсь дорогим мне людям в тягость. Это тяжело.

 

体調面のみならず、お金も底をついたという点で、物質的にも非常に辛い状態にあることが訴えられ、「全てから解放されるために、時々死んでしまいたくなる」というように、諦めにも似た感情が滲み出ている。もはや死がすぐ近くに迫っていることを明確に感じていたと言えるだろう。にもかかわらず – あるいは「だからこそ」 – 彼は第3交響曲を夢見てピアノの前に座り、高熱の中で楽譜に向かっていたようだ。

 

しかしこの後、病は急速に悪化する。1900年(旧暦)12月29日に彼は天国へと旅立った。享年35歳。

 

 

<参照ページ>

http://www.liveinternet.ru/community/4989775/post297304144/

http://ale07.ru/music/notes/song/muzlit/kalinnikov6.htm

以上のサイトに掲載されていた「手紙」をここでは引用しました。(孫引きなので申し訳ないです)出来る限り一次資料に当たりたいと思いますので、カリンニコフの手紙や自筆譜を閲覧可能な書籍やサイトをご存知でしたら、言語を問わず、どうぞご一報頂ければ幸いです。なお、ロシア語のリーディングにあたっては、大学・大学院時代の畏友である細川瑠璃さんのお力添えを頂き、また、ロシアで活躍する友人のバレリーナ、砂原伽音さんからアドヴァイスを頂きました。誤読・誤字などの責任はひとえに私の不勉強に帰するところですので、もしお気づきの点などありましたらご指摘頂ければと思います。