プノンペン国際音楽祭にて、モーツァルトとベートーヴェンを指揮してきました。人生で二度目のカンボジア、人生で二度目の海外での「運命」!やっぱりこの曲は特別で、UUUオーケストラ&セブ・フィルハーモニックオーケストラとセブで演奏した日のことを思い出しながら飛行機に乗り、アシアナ航空で仁川を経由してプノンペンに向かいました。国際音楽祭の最終公演を指揮させて頂くというのはとても名誉なことで、ありがたい限りです。
演奏ツアー自体は5日間あって、最終日のプノンペン国際音楽祭までに、現地の学校を回って訪問演奏会を二公演致しました。そのうち一つの学校は日本語を勉強している子どもたちだったので意思疎通も取りやすく、とても盛り上がりましたし、片言のクメール語も通じて安心しました。演奏会が終わってからホテルに帰り、翌日からの国際合同リハーサルに向けて間髪入れず練習。練習後の夕食を終えてからも、指揮者部屋にて低弦強化練習を24時前まで。演奏会では終演後にこんな手紙を頂いたりもしました。
翌日は早朝から指揮者部屋に集まって低弦強化練習と指揮のレッスンをしたのち、国際合同リハーサル。今回はタイ・ベトナム・アメリカ・マレーシア・ポーランド・ドイツ・日本…と、なんと八カ国の奏者から成るオーケストラが出来上がっており、まさに「音楽は国境を越える」を実感する時間となりました。それにしても、リハーサルであれ本番であれ、四日間連続で「運命」を振り続けるのは相当に大変です。ましてや冷房や音響が満足に整わない環境だとなおさらです。それでも毎回、リハーサルであろうと本番であろうと全エネルギーを注ぎ込み続けました。そうするうちに(海外での演奏ツアー経験 はこれで6回目ぐらいですが)今回はじめてツアー期間中に高熱を出してしまいました。けれども体調は自分の管理の問題ですから、いくら体調が悪くとも、ステージにひとたび立てば言い訳も弱音も許されませんし、言うべきでもありません。マネージャーとして身の回りの諸々を纏めてくれていた数人以外は私の体調が悪いことにも気付かなかったとのことで、ほっとしました。というよりはむしろ、指揮棒を持った瞬間に自然にピリっと気持ちが切り替わりました。どんな状態であれ、気の抜けた「運命」は絶対にやってはなりません。緊張感と強靭な精神が迸るように…。結局一晩できちんと完治させたのですが、本番前日のリハーサルにて38度超えの中で振った運命は妙な気迫が篭ったように思います。「あ、いま文字通り命を燃やしている」と思える瞬間があって、いい勉強になりました。
そしていよいよ迎えたプノンペン国際音楽祭。The European Dream of Progress and Englitenmentというテーマに応えるべく、モーツァルトのピアノ協奏曲第17番ト長調、ベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調「運命」、アンコールにカール・ジェンキンスの「パラディオ」(金森詩乃編曲)というプログラムを組んで演奏しました。なぜコンチェルトに17番を選んだかというと、ソリストであるスレイヴァン氏が愛してやまないコンチェルトであったことが最大の理由であり、また、第三楽章の最後に付けられたPrestoが、ベートーヴェンの「運命」四楽章最後のPrestoと構成・リズムの両面において好対照を成すと考えたからです。転調の妙技が輝く第一楽章、メシアンも絶讃した限りなく美しい第二楽章、そしてムクドリの鳴き声から書き起こしたオペラブッファ的な軽さを持つ第三楽章。「運命」という重厚さを持った交響曲の前にはこれぐらい軽やかなコンチェルトが似合います。
アンコールにPalladioを取り上げた理由は、端的にいえばPalladioのモチーフには「運命」のパロディ的な要素が含まれているように思われたから。作曲家・金森詩乃は、私のその思考を十分に理解したうえで、素晴らしく冴えたオーケストレーションをして下さいました。ちなみにタイトルのpalladioとは、16世紀のマニエリズムの建築家、アンドレーア・パッラーディオのことを指しているはずです。パッラーディオは古典的な造形に則った建築を作りつつも、ペディメントを戴く円柱の利用に代表されるように、古典的な技法を斬新な形で建築に取り入れました。古典的でありながら現代的。後世のあらゆる建築家に影響を与えた建築家。それはまさに、切り詰めた音と古典的なフォルムで書かれながらも永遠に現代的でありつづける交響曲第五番「運命」との共通性を感じさせますし、作曲家として影響を受けないものはいないであろうベートーヴェンという偉大な作曲家の存在と強く響き合うものであるように思われます。
カンボジア人ピアニストとして初めて協奏曲を弾いたスレイヴァン氏。協奏曲を弾くのがピアノを習い始めたころからの夢だったそうです。カーテンコールで舞台袖に戻ったとき、普段クールな彼が、Wow, I did it!!と叫んで飛び跳ねたのが忘れられません。カンボジアという国の辿った歩みを考えたとき、これは本当に歴史的な瞬間でした。なんとカンボジアでピアノ協奏曲が演奏されたのは、これが史上初めてだったのです。今日この日に、指揮者として立ち会えたことが幸せでなりません。
そしてもちろん、最後の「運命」は全身全霊で!最後のフェルマータを振り抜いた瞬間、「Yes!!」という観客の声と盛大な拍手を頂いて嬉しかった。アンコールのPalladioもとても好評だったようで、終演後に「さっきの曲はいったい何?!頭から離れなくなった!」というご感想を沢山頂きました。
反動で、翌日は一日抜け殻のようになったのですが、夜にはワールドカップの日本vsカンボジア戦をホテル近くのスタジアムで観戦したりして充実した休暇を過ごしました。
とはいえ、帰国して落ち着いた今になって振り返ってみれば、カンボジアでの日々は本当にハードだったと言わざるを得ません。まず会場に大変苦しめられました。練習会場に入ったら電気がショートして煙が立ちこめるし、本番会場は吸音素材と絨毯が張り巡らされて超デッドな空間。響きが まったくない空間で指揮したり演奏したりするのは至難の業。もちろん指揮台も指揮者用譜面台も指揮者用椅子もありません。つまり五日間×六時間以上、毎日立ちっぱなしの振りっぱなし。でもそれは、カンボジアの歴史を考えたときどうしようもないことです。せめて下の絨毯だけでも何とかしようと思って、チェロ のルームメイトと作曲家の友人と一緒に何かしらの「板」を探しに走ったのが懐かしく思えます。ちなみに文房具屋で囲碁板(!)を大量に入手してそれを敷きました(笑)
エキストラにも苦しめられました。本番近くなってからしか来ないにも関わらず、楽譜通り吹かずに勝手にリズムとテンポをアレンジするし、飛び出したり落ちたりしまくる。あんまりにも酷いので、温厚さに定評のある(?)僕も頭に来てリハーサルでNO!!!!と叫ぶぐらいでした。「運命」を五日間連続で振り続けて体力も集中力も佳境に入っているところでこれは相当にストレスフルなものです。ましてや自分にとって最も大切な曲のひとつ。いい加減に演奏されるのは我慢がなりません。小編成から粘り強く積み上げ、細かなリハーサルを重ねてここまで来ただけに尚更でした。
救いはソリストのスレイヴァン君と心から親しくなれたことと、エキストラで来て下さったマレーシアのヴァイオリニストにとても嬉しい言葉を頂いたこと。「君が何を指揮しているのかよくわかる。それは音楽の<芯>だろう?運命の冒頭が言葉なしに一発で揃うなんて。君の棒を見た通りに弾けば素晴らしいベートーヴェンになる!」と言って頂いたのを、亡き師に直接報告したかった。
そして何より、最後まで粘り強く頑張ってくださった日本人メンバーに感謝したいと思います。コントラバスの一台はエンドピンが壊れていて、低弦は全体的に弦高が高く弾き辛い楽器ばかり。ティンパニは物凄い状態で、それでもガムテープを貼ったり様々な工夫をして叩いてくれた打楽器メンバーには頭が上がりません。
…というように書き始めればキリがないほど、かなり大変な日々だったのですが、得難い時間でもありました。クラシック文化の根付いていないアジアの国で演奏するということはこういうことです。いわゆる「指揮者」の職分を超えることも沢山あるけれど、その度ごとに走り回って、自分に何が出来るか・この局面をどう打開するか柔軟に考えなければなりません。でも、こうした地道な積み重ねの結果、国籍やバックグラウンドをこえて音楽が共有されていくあの瞬間に惹かれてやまないのです。Per aspera ad astra (苦難を通じて栄光へ)というセネカの言葉のごとく。
また、こういう経験をするたび、日本での日常がどれだけ恵まれた音楽環境であるかを実感します。ホールがあるというのはそれだけで贅沢なこと。時間通りにきちんと集合することや、合奏に乗る上できちんとさらってくるのが当然の文化があるのは誇るべきことです。基本的なソルフェージュの共有もアジアでは決して常識でありません。ベトナムの奏者が我々の持っているポケットスコアを見て、「こんなのあるんだ!」と羨ましそうに言っていたように、楽譜や楽器の入手に際するハードルも格段に違うのです。
写真は終演後に完全に壊れたティンパニでマウリシオ・カーゲルのティンパニ協奏曲ごっこ。困難に際しても常にユーモアを忘れずに生きていきたい。これもまた、得難い経験でした。
One thought on “カンボジアの記憶、アジアで演奏するということ。”
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