カリンニコフ、ふたたび。

週末、福井大学フィルと8年目の共演。久しぶりにカリンニコフの交響曲第1番を振る。28歳で大学オーケストラを初めて指揮することになったときの思い出の曲。当時の自分が書いた文章を読み直して、どれだけ自分がこの曲に魅せられていたのかを改めて思う。カンボジアのバスの中で涙していたことを思い出す。慣れないロシア語に格闘したのだった。

あれから数年が経ち、僕はカリンニコフが旅立った時と同じ年齢になった。この歳で再びこの曲を指揮することになったのは何かの偶然だろうか。カリンニコフの壮絶な生涯に比すれば自分はあまりにも卑小で、いったいこの数年に何を成したのだろう?と自問せざるを得ないけれど、いま楽譜を開いて立ち上がってくる景色は、あの時よりずっと、鮮やかで激しい。


追記:よし、カリンニコフを振りにいくぞ!と意気揚々と羽田から小松に飛んだところで、愛用のスーツケース(機内持ち込みしているのに…)の鍵がなぜか壊れ、中の楽譜も指揮棒も取り出せない非常事態に。とりあえず小松までは飛んだものの、これはピンチと急遽行き先を金沢に変更、遅くまでやっていそうな鍵屋さんに出張解錠を依頼。解錠が終電に間に合えば本日中に福井に着けるけど、間に合わなかったら金沢泊まりで朝に福井へ向かうことになる。

ともあれ、解錠を待つ時間でこのブログを書けたから万事OK。さて、どうなることやら!


追記2:素晴らしい鍵屋さんの仕事で、なんとかダイナスター終電に飛び乗ることに成功。本日中に福井に着くことができそう。(福井周辺は電車が止まりがちなので絶対に前日入りしておきたい。そんなわけで8年間にわたって前入りし続けている)

瞬時の即興的判断が求められる旅の日々。こういうことがあるといつも、慶應で卒業論文を指導した学生の「意志力」についての論文、およびバウマイスターのWILLPOWERという本を思い出す。意志力はMPみたいなもので、使うと消耗するし、最大値も増減しうる。意思力ゲージが下がっていると判断も鈍くなる。

近年の研究で、「意志力は有限ではないし、自我消耗なんてものはプラシーボだ」という批判もあるが、個人的には、意志力を泉のようなものとして捉え、意志力ゲージを仮想することは、自分の精神状況を俯瞰するために有用な考え方であるように思う。体感的にもすごく納得できるところがある。

ともあれ今日は最速で最適解を取ることができました。意志力ヨシ!

カリンニコフ、ふたたび。

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