世界創造、そして地獄の門

時が満ちるまでは振らないと決めていた曲をついに振った。それが成功しているのかどうかは自分では分からない。でも、一緒に演奏したひとが、こんなにこの曲は素敵だったのかと高揚した顔で話しているのを聞いて、すべて報われた気がした。

それはベートーヴェンの第9番交響曲で、今日のリハーサルは第1楽章だった。1824年作曲。第1楽章が547小節。第2楽章が954小節。第3楽章が157小節。そして合唱の入ってくる第4楽章が940小節。合計2598小節に至るこの音楽だが、勉強するたび、1楽章冒頭のわずか数小節で釘付けになる。

ここでベートーヴェンは時代を超えた。このわずか数小節で、他の誰にも真似のできないことをやってのけた。そもそも、他の作曲家にもましてベートーヴェンは自身の交響曲の最初に革命を仕込む作曲家だった。当時の交響曲はふつう主調の1度の和音からはじまるところ、彼はその第1番の交響曲からぶっ飛んだ手法を用いて属7の響きからスタートした。あるいは、第3番「英雄」冒頭の二つの和音。これはハイドン、モーツァルトからの乗り越えを表す。第五番「運命」は、実は8分休符から始まる。休符、無音は何物にも増して強烈な音楽だと言わんばかりに。7番、エネルギーと生命に対する問い。フラッシュする和音と、来るべき舞踏に備えてパワーを蓄積するジェットコースターのような音階の対比。交響曲、特に奇数番号交響曲の冒頭はしばしば、彼の制作における「宣言」だった。

第9番。最後の交響曲で彼は時代を超える。ソナタ形式のお決まりのように主題を提示exposerするのではなく、断片の中から主題が生成devenirされていくようなプロセスの現れの試行。フラグメントが全体になっていく。冒頭、空5度-Open Fifthを用いた調性の不明さ。3度音がないことで長調とも短調とも判別がつかない。茫漠たる状態は同時に可能性の横溢でもある。こんなことは、その時代の誰もやったことがなかった。「揃わない」ことを織り込んだトレモロの響き。しかしホルンの持続音が調和を予感させる。混沌のなか夜が明けていくように、聞こえなかった耳に少しずつ音が聞こえ始めるように。それは快い響きではなく神聖なノイズだ。ベートーヴェンはこの曲の初期のスケッチに「絶望」と記していた。1802年のハイリゲンシュタットの遺書を思い返す。

[昔あった、あの懐かしい「希望」。この地なら、少しは良くなるだろうかと思ってやって来たのに、その望みも断たれてしまった。人に聞こえて自分に聞こえないときには、どれほどの屈辱感を味わったことだろうか。そうしたことに出会うと、全く絶望し、すんでのところで自殺しようともした。そうしたとき私自身の芸術だけが、生へと引き戻してくれたのだ。(中略)やり残したことをせずに死を迎えるのは口惜しい。死が遅く来ることを願う。でももし、死神が早い死を望むならうけてやろう。やって来い、死よ。さようなら。私の死後も、どうか私を忘れないでくれ。]

混沌のなか、Sotto voce(声を潜めて)という指示が付されて5度と4度の下降系で光が射す。それは希望か。それとも違和感か。ほんの些細なそれが、しだいに渦に揺れを作り出し、世界を創造する。うねりが押し寄せる。空間が締まっていく。結果として、この光は全楽章を貫くモチーフになる。バタフライ・エフェクトのことを思う。ビックバンといってもいい。ニーチェのAlso sprach Zarathustraの一節も。


Man muss noch Chaos in sich haben, um einen tanzenden Stern gebären zu können. 輝く星を生むためには、君の内なる魂にカオスがなければ。

そして混沌の中から第一主題が生成される。この間、17小節。時間にして30秒足らず。楽譜のページにしてわずか2ページ。何度読み返しても心震える衝撃的な冒頭。果たして自分はこれを指揮できるのかと問わずにはいられない。序奏のなかから主題が生成される。それは彼の創作のプロセスそのものであるように思う。自筆譜を見れば分かる。彼はモーツァルトとは違った。手探りで、真っ暗な中から絶望的な格闘とともに何かを掴み取ろうとした。ベートーヴェンはここで、自身の生そのものと音楽との距離を融解させた。生が音楽になり、音楽が生になった。

そうした「宣言」の後にやってくるのは型通りの古典的カデンツ。I-V-I-Vと踏む力強さ。次いで訪れるベートーヴェンお得意のナポリの6度の響き…。第1楽章547小節を経るその最後に、彼は地底への扉を開いて降り立つ。ただしこれまでに得た5度の光を携えて。そこにあるのは徹底的な半音階の世界。音楽の修辞学で言うところのPathopoeia、passus duriusculus「苦難の歩み」のフィグーラ。痛み。ダンテ、そしてロダンの地獄の門。

「永遠の物のほか物として我よりさきに 造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ 汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ」

だから、続く第二楽章のスケルツォは裁きの世界なのだ。今日はここまで。

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