毎年誕生日には、筆が走るままに思う事を書き付ける。自分が満足するためだけに文章を書く。
31歳になった。感慨は、あまり無い。ただ危機感だけが迫り来る。
焦ることなくマイペースに走り続けてきたつもりだけれど、人生ではじめて焦燥を覚えているのだと思う。
心のどこか僅かに、安定を求める自分が生まれはじめる。身体にも、20代のときと顕著な違いを感ずる。
酒に弱くなった。夜中に食事を摂ると翌朝が辛くなった。大好きだったひとたちはみな、自分たちの人生に歩んでいった。
過ごしてきた時間と、残された時間の重みが、同時にのしかかる。
これで良かったのか、と過去を後悔する気持ちは全くといってよいほどないが、
ここからの選択は引き返せないものになる、という直感がある。
そんなことを考える自分に気付き、自分も平凡だなと思って全て投げ出したくなる。
誕生日を迎える少し前の日、自分に詩を教えて下さった恩師と夕食をご一緒させて頂いた。
オブセッションを与える天才といってもよい先生。ボードレールを教わった日々は忘れ難い。
帰宅してから、当然のごとくボードレールを読みたくなり、久しぶりに「パリの憂鬱」を取り出す。
柔軟にして突兀たる詩的散文の奇跡。折り目をつけていた「Enivrez-Vous 酔いたまえ」のページを開いて、ぼんやりと考える。
福永武彦訳を引用しよう。
常に酔っていなければならぬ。すべてはそこにある、これこそ唯一無二の問題である。
君の肩をめりこませ、地上へと身を傾がせるかの「時間」の怖るべき重荷を感じないためには、休みなく酔っていなければならぬ。しかし、何によって? 酒であろうと、詩であろうと、徳であろうと、それは君にまかせる。ただひたすらに酔いたまえ。
そして時あって、宮殿の階の上に、土手の緑の草の上に、君の部屋の陰鬱な孤独の中に、君が目覚め、陶酔の既に衰え次第に消えて行くのを感じるならば、訊きたまえ、風に、波に、星に、鳥に、大時計に、すべての逃げ行くもの、すべての欺くもの、すべての流転するもの、すべての歌うもの、すべての口を利くものに、今は何時かと訊きたまえ。そうすれば、風も、波も、星も、鳥も、大時計も、直ちに君に答えるであろう、『今こそは酔うべきの時だ! 「時間」に酷使される奴隷となり終わらぬためには、絶えず酔っていなければならぬ! 酒であろうと、詩であろうと、徳であろうと、それは君にまかせる、』と。 (福永武彦訳)
これを読んだのは大学四年生の頃だっただろうか。人間のみならず動物も自然も逃れる事のできない「時間」から、いかにして逃れるか。
残酷なまでに規則正しく訪れ、流れ去って行く時間の重み。そこから身を躱す方法こそが「酔い enivrer」と表現されるものである。
酔いという表現の見事さに、ああ、美しく描き出すものだなあ、と感心していた。
しかし今になって読み直すと、思う事は全く異なる。今のぼくは、ここに、表現者ボードレールの痛ましいほどの闘いを聴く。
酔うとは、格闘の手法である。時の重さに怯える詩人がここにいる。
Pour ne pas sentir l’horrible fardeau du temps qui brise vos épaules et vous penche vers la terre, il faut vous enivrer sans trêve.
(君の肩をめりこませ、地上へと身を傾がせるかの「時間」の怖るべき重荷を感じないためには、休みなく酔っていなければならぬ。)
時間は年々その重さを増す。抵抗しなければ、我々は容易に地へ傾ぐ。
この無法者もまた、時の呪縛からは無縁ではいられなかった。
pour ne pas être les esclaves martyrisés du temps, enivrez-vous, enivrez-vous sans cesse de vin, de poésie, de vertu, à votre guise.
(「時間」に酷使される奴隷となり終わらぬためには、絶えず酔っていなければならぬ! 酒であろうと、詩であろうと、徳であろうと、それは君にまかせる)
「時間」に酷使される奴隷、というところに彼の悲痛な叫びを聞く。循環した文章。
すでに一度目の「酔い」の宣言の前に出て来たこの文章を、酔いが醒めつつあるなかで、次は風や波、星や鳥、大時計がこたえる。
さきほどよりも強い口調をもって、 enivrez-vous, enivrez-vous sans cesse de vin, de poésie, de vertu, à votre guise. と。
風や波、星や鳥、大時計は、繰り返しあるいは空に浮かび、時と重さから自由な存在であろう。
彼らは、時をたずねる問いに対して、時を感じさせないための答えを返す。
絶えず酔っていなければならない。酔いから醒めた瞬間に、時間は君を地にめり込ませるから。
時間がめぐることに怯えず、酔いという格闘の手法を持って、永遠に生きるかのごとく悠々と過ごせ。
そう語るように今は聞こえるのだ。
だからここでリルケを思い出すのは荒唐無稽ではないだろう。
Da gibt es kein Messen mit der Zeit, da gilt kein Jahr, und zehn Jahre sind nichts, Künstler sein heißt: nicht rechnen und zählen; reifen wie der Baum, der seine Säfte nicht drängt und getrost in den Stürmen des Frühlings steht ohne die Angst, daß dahinter kein Sommer kommen könnte. Er kommt doch. Aber er kommt nur zu den Geduldigen, die da sind, als ob die Ewigkeit vor ihnen läge, so sorglos still und weit.
そこでは時間で量るということは成り立ちません。年月は何の意味をも持ちません。そして十年も無に等しいのです。およそ芸術家であることは、計量したり数えたりしないということです。その樹液の流れを無理に追い立てることなく、春の嵐の中に悠々と立って、そのあとに夏がくるかどうかなどという危惧をいだくことのない樹木のように成熟すること。結局夏はくるのです。だが夏は、永遠が何の憂えもなく、静かにひろびろと眼前に横たわっているかのように待つ辛抱強い者にのみくるのです。(『若き詩人への手紙』)
自分の誕生日が、夏の訪れる少しまえ、5月の終わりであるのはいいなと思う。
31歳。安定に走るには早すぎる。酒に弱くなった今こそ、酔わなければならない。
酔いの身振りで悠々と、夏をゆっくりと待っていたい。