福井大学フィルハーモニー管弦楽団第66回定期演奏会のために執筆したプログラムノートを加筆修正して掲載します。転載・引用される際はご一報下さい。
貴志康一は大阪府吹田市出身の1909年生まれ、1937年没。はじめ画家を志すも、来日中だった世界的ヴァイオリニストであるミッシャ・エルマンのコンサートに衝撃を受けて音楽の道へ進む。宝塚交響楽団の指揮者であったヨゼフ・ラスカに音楽理論と作曲を学んだ。兵庫県の甲南高等学校を2年時で中退。大正から昭和へと元号が変わるなか、欧州航路船にて単身スイスへ渡り、ジュネーヴ音楽院に入学。次いでベルリン高等音楽学校でカール・フレッシュにヴァイオリンを師事。1710年製ストラディヴァリウス「キング・ジョージ三世」を購入し、自身の愛器とする。のちにこの楽器を携えて、シベリア鉄道経由で敦賀港から帰港したとき、「日本にストラディヴァリウスが初上陸」として 敦賀新聞に取り上げられたという。
28年間というその夭折の生涯において三度ヨーロッパに渡り、ベルリン・フィルの指揮者であったフルトヴェングラーと交流を持ち、ヒンデミットに作曲を師事した。1934年、25歳の若さでベルリン・フィルを指揮するなど、ヴァイオリニストのみならず指揮者としても多大な業績を残している。作曲家としては、交響組曲「仏陀」「日本組曲」や映画音楽など数多くの楽曲を残す。湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受賞した際の晩餐会で貴志の「竹取物語」が演奏されたことは特に有名。その音楽は、東洋と西洋の精神文化の融合というテーマに貫かれており、貴志がドイツで自費出版したある楽譜には「日本人の感情を西洋の人の心に寄せる」というメッセージが書き残されていたという。
本ヴァイオリン協奏曲の作曲は1931年から1935年にかけて。作曲当時、ベルリンから父に宛てた手紙によれば、このヴァイオリン協奏曲の「第一楽節の線なり色は、広重(注:浮世絵師・歌川広重)の絵から取りました」とある。極めて印象的にグラデーションと奥行きを持って情景の変化が描かれるこのヴァイオリン協奏曲を聞けば、広重の作品からインスピレーションを受けたという逸話も宜なるかなという思いがする。当初は和楽器をふんだんに用いたオーケストレーションが成されていたものの、作曲を師事したエドヴァルト・モリッツからのアドバイスにより、西洋楽器主体の編成に改訂され、西洋楽器の様々な特殊奏法を用いることで和風の響きを醸し出すという挑戦が成されている。作曲当初、独奏は貴志康一自身が担うことを想定していたが、1934年3月の初演時はゲオルグ・クーレンカンプが独奏を務めた。日本での全楽章初演は1944年1月、辻久子の独奏、尾高尚忠指揮の大阪放送管弦楽団による。
第一楽章
Allegro molto。オーケストラによって、祭りを思わせる活気ある旋律が奏されたあと、ソロ・ヴァイオリンが舞い始める。日本的な旋律に加えて、弦楽器のピチカートやコル・レーニョ奏法(弓の毛ではなく、木部で弦を叩き、乾いた響きを出す特殊奏法)や打楽器の響きを効果的に用いた管弦楽法によって和が演出される。ソロ・ヴァイオリンによって奏された第一主題をオーケストラが引き継ぎ、西洋音楽における代表的書法であるフーガによって高められたのち、技巧的なパッセージを挟んで叙情的な第二主題に移る。第二主題は、長調と短調を移り行く独特の転調を重ねながら、次第に夜が明けていくような広がりを見せる。のち、バルトークを思わせる土俗的で激しい舞いが展開されたのち、再び叙情的な要素が導入される。超絶技巧によるカデンツァを挟んで、これまでの要素が目まぐるしく展開されたのち、華やかなフィナーレを迎える。
第二楽章
Quasi Andante。緩徐楽章。冒頭は管楽器とハープ(今回はヴァイオリンで代用)によって歌われる導入は、雅楽の雰囲気を漂わせる。ソロ・ヴァイオリンとオーケストラが共に歩むような伸びやかな歌に続き、ソロ・ヴァイオリンによる独白をはさみ、息の長い旋律が展開される。ふたたび管楽器による歌を経て、雪景色のなかに消え入るように霞んでゆく。
第三楽章
Molto Vivace。四分の二拍子と八分の六拍子の複合が成された極めて快活な楽章である。ヴァイオリニストとして左手の技巧に自信のあった貴志康一ならではだろうか、ソロ・ヴァイオリンには冒頭から最後まで激しい超絶技巧が求められる。かっぽれや歌謡的旋律、舞楽的な要素など、様々なテーマが変奏曲的に繰り広げられる。最後は勢い良く駆け抜けて、大見得を切るような全休止のあとに終止する。華やかな管弦楽総奏ではなく、低音楽器を中心とした重心の低い編成によって締め括られるという点に、西洋の協奏曲の終わりとは異なる独自性を感じさせる。
本ヴァイオリン協奏曲は、日本人作曲家が手がけた初のヴァイオリン協奏曲という歴史的に重要な意味を持ちながら、実際の演奏機会はそう多くはない。プロ・オーケストラでの演奏はいくつか散見されるものの数えられるほどであり、大学オーケストラに限れば、貴志康一作品を積極的に取り上げていた小松一彦氏指揮/中央大学管弦楽団による1999年の演奏以降、日本で取り上げられた記録は見当たらない。それはソロ・ヴァイオリンに要求される極度の超絶技巧に加え、独特の楽器編成を必要とするからであろう。
しかしながらこの曲が持つ魅力と歴史的意義を考慮すれば、まずは何よりも演奏の機会を積極的に作っていくことが重要ではないだろうか。「日本的なるもの」を定義することは難しいが、一聴して納得せざるを得ない和の気配が漂うこの傑作は、日本が世界に誇るヴァイオリン協奏曲であると信じて疑わない。我が国のクラシック音楽文化黎明期に世界と格闘した貴志康一の魂が刻まれた本曲を、ひとりでも多くの方に聞いてほしいと願う次第である。
最後に、貴志が死の直前に残した随筆を掲載させて頂きたい。1940年に開催予定だった東京オリンピックが近付く中で書かれた一篇である。
「オリンピックもだんだん近付き、日本の総てがあらゆる方面に於てもそのベストを尽くそうとして準備しつつあるに際して音楽に於てもその文化的・芸術的最高水準を示したいものだ。然し其れと共に大部分の外客は日本の大衆を見、大衆芸術に接するものと考えなければならない。その際、純日本音楽は外国人にそう親しめるものでなし、自然流行歌等は彼等の耳にとまる事であろうが、今の流行歌じゃあ何と言ってもお恥しい次第である。日本人のヨハン・シュトラウスはまだ出ないにしてもせめてレハール位は出てもよさそうなものだ。何れにせよウィーンと言えばワルツの都と思浮かべる様に日本もせめて一つ音楽都市と世界に誇り得る大衆芸術が生れてよさそうなものだ。」
(「病後随筆」『音楽評論』1937年6月号)
執筆にあたっては、毛利眞人『貴志康一永遠の青年音楽家』(国書刊行会)および梶野絵奈, 長木誠司, ヘルマン・ゴチェフスキ編『貴志康一と音楽の近代 ベルリン・フィルを指揮した日本人』(青弓社)を大いに参考とさせていただきました。また、甲南学園の貴志康一記念室様には資料のご提供などで大変お世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。