神奈川セリエスオーケストラさんとの第二回リハーサルを終えました。今日の練習は横須賀の向こう(!)だったので、ちょっとした旅行をした気分で楽しかった。ここ数日はひたすら夜中にブラームスとチャイコフスキーを勉強していました。朝になって眠る、というこの昼夜逆転生活は身体に良くないのは分かっているのですが、どうしてもこの二曲は太陽が出ている間に勉強する気になれず…(笑)
チャイコフスキーの四番というのは、私にとって非常に辛い曲です。この曲にはある種のおぞましさというか、狂気の姿が漂っているように思われるからです。その凄まじさゆえ、私にしては珍しく、どうしても一冊の楽譜と長い時間向かいあっていることができない曲なのですが、一方で、これはそういう感情になるべき曲だろうとも思っています。決して冒頭はファンファーレではなく、悲劇の宣告でなければいけないし、旋律の上空に漂うアルペジオは分裂病的でなければいけない。それが正しいかどうかは定かではない(そもそも音楽は「正しさ」を求める芸術ではありませんね)のですが、今の私はそんなふうに感じています。
何よりもこの曲が面白いところは、実際にオーケストラと共にやってみると、一人で譜読みしているときとはかなり違った感覚を受けるということです。「熱」としか言えない何物かが音楽を突き動かして行く。人間の内側にあるものがえぐり出されてくる。一人の人間では決して不可能な、大勢がエネルギーを注ぐことによってしか生まれ得ない何物か、熱や内面の感情の揺れ動き。チャイコフスキーが音楽を通じて描き、操作しようとしたのはそういうことであるように思えます。
チャイコフスキーはこの曲について、メック夫人宛に細かくイメージを言葉にして送っています。一楽章の二つの主題について、二楽章のメランコリックな感情について、三楽章の「心は楽しくないが、悲しくもない」イメージについて、四楽章の「素朴であるが力強い喜び」について…。けれども、あの手紙で最も注目すべきは、「言葉尽きるところから音楽が始まる」という一節にあるでしょう。「生まれて初めて音楽の思想とイメージを言葉に移す」ことをしたけれども、結局それをしかるべく語ることはできなかったし、語ることができないというところに器楽の本質がある。味わった感覚の激しさ。気味の悪さについての漠とした記憶。細かいことはさておいて、とにかくそれがこの交響曲を書いていたときに味わっていた気分なのだとチャイコフスキーは語るのです。
Wo die Sprache aufhört, fängt die Musik an. 言葉尽きるところから音楽が始まる。おそらくはホフマン(チャイコフスキーの手紙ではハイネの言葉とされていますが)の一節であろうこの言葉は、私にとって真っ直ぐに突き刺さってくるものでした。だからといって言葉が無力なものであるというわけではないのです。言葉を尽くすことと言葉を諦めることとは全く異なるものであり、言葉を尽くして限界まで接近を試みた先にある断絶=跳躍を求めねばなりません。そして、その跳躍の瞬間に訪れる「なにものか」に惹かれて音楽に関わり続けているのだろう、と。
リハーサル後の興奮を引きずり、いささか纏まりのない文章になってしまいました。次の週末は福井でドヴォルザークの八番。これまた大好きな曲であり、朝靄が晴れていくあの瞬間を福井大学フィルの皆さんと共有できるのが楽しみです。やっぱり音楽している時間がいちばん幸せ!