和の距離 – 尾高尚忠「フルート協奏曲」をめぐって –

福井へ第2回リハーサルに向かう車中でこの文章を書いている。7月初旬の東京は日照時間わずか10分程度という記録的な曇り空と雨模様だったが、昨日あたりから雲は晴れ、夏らしい陽射しが注ぎ始めた。紫外線に困りつつもどこか人々の顔は晴れやかになり、夏服を着た人々に擦れ違うことが楽しく思える。(アーウィン・ショウの『夏服を着た女たち』ではないけれども…。)

梅雨から夏へ季節が移ろうあいだ、ずっと尾高尚忠のフルート協奏曲を勉強していた。あえて詩的な解釈をしないように自らに禁じ、和声と構造、そして何よりアーティキュレーションとリズムに焦点を絞り、この作品に漂う精妙な洒落っ気がいったいどこから立ち現れるのかを考えていた。たとえば呂旋法的に4の音を抜いて和を演出しつつも、2ndヴァイオリンの半音をそっとずらすことで西洋音楽の枠組みにふわりと無理なく収めて行く。そうかと思うと減7の和音を2種類重ねて印象的な一瞬を作り出す。テヌートとアクセントの書き分けに付与された狙い。そこにあるのは心憎いまでのバランス感覚であり、尾高尚忠という作曲家の辿り着いた境地(この作品がいわば彼の「遺作」になった)を垣間見る気がする。日本人作曲家の遺した傑作として、日本人である私はこの曲をこれから何度も何度も取り上げていくだろう。

しかし日本人であるからこそ、この曲を扱う上ではイメージから入るのではなく、ある種の「引き」を持って対峙せねばならないように思う。日本らしさを全面に押し出して主張するのではなく、西洋的な枠組みに収めながらも、しかし聞くものに日本らしさとしか言いようのない要素をさらりと感じさせる。それこそが尾高のフルート協奏曲に宿された精神ではないだろうか。もちろんイメージやポエジーがそこになくてはならないのだが、先にべったりと日本らしさを付与してしまってはいけないのだ。おそらくこの楽譜はそういうふうに書かれていないし、そう演奏されることを望んでいない。あくまでも「和」は楽譜の中から自然と立ち上がり、主張せずとも聞く者の心に何かしらを喚起させる。そういう絶妙な距離感 – いうなれば「気品」 – を漂わせた演奏を心がけたい。

こういうふうに書いてみて、ドビュッシーの「月の光」を村方先生から教わったときのことを思い出す。「君の<月>は近すぎる。」あの禅問答のような一言が私に与えた衝撃の大きさはいくら筆をとっても足りない。没入するだけが音楽のありかたではないのだ、と目が覚めるような思いをした。ジャンケレヴィッチ的な三人称-客観の距離で空間を造形することによって生まれるポエジーのありかた。指揮というのは時に、世界との距離の取り方をめぐる芸術でもあるということ…。

カリンニコフを振りにいった第1回のリハーサルの前日と同様、昨夜もまた夢の中でもずっと尾高のフルート協奏曲が流れ続けていた。寝ても覚めても、あるいは朝起きた瞬間から考えずにはいられないもの。それが君の人生を捧げるべき対象だーー駒場時代に教えを頂いた師の言葉だった。それは単なる人生論ではなく、ヘルダーリンの帰郷、「君が探しているもの、それは近くにあって、もう、君に出会っている」(Was du suchest, es ist nahe, begegnet dir schon.)という一節を踏まえたものであったのではないかと今は思う。そして私は「それ」に既に出会ってしまっていて、実際に「それ」を人生の中心に置く日々を歩み始めているのだ。

 

その幸せを噛み締めて精一杯やろう。快晴、新幹線の中から今日はよく富士山が見えた。