5月22日の東京文化会館コンサートのために執筆したプログラムノートを掲載致します。「パリの痕跡」というテーマを浮き彫りにするような形で執筆するこ とを目指したものです。あくまで他のプログラムノートとの比較・連関によって成り立つ解説になっています。また、コンサート当日のプログラムノートは、ここに掲載させて頂くものから随分とカットした短縮版になっています。転載歓迎ですが、ご一報頂くか出典として本サイトに言及頂けたら幸いです。
フランシス・プーランク「ピアノと木管五重奏のための六重奏曲」
« moine ou voyou »すなわち「修道士とガキ大将」が同居している、と評されたプーランク。「聖」と「俗」を自在に横断したこの作曲家を語るうえで、「パリ」という都市のことに触れないわけにはいかない。第一次世界大戦終結後の1919年頃から、パリは「狂乱の時代」と言われる状況にあった。
「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」まさにこの時代にパリで青春時代を過ごしたヘミングウェイの一節である。あるいはウディ・アレンが映画「ミッドナイト・イン・パリ」のなかでユーモアをもって描いたように、この時代のパリは、世界各地から多くの若い芸術家が集まる都市として、不夜の活況を呈していた。
20世紀の初頭、こうしてパリに集った多様な芸術家たちの交流が、同時代に生きたプーランクという作曲家の感覚を磨いていった。サティ、ラヴェル、オーリック、プロコフィエフといった作曲家たちのみならず、クリスチャン・ディオール、ジャン・コクトー、ディアギレフとの交流…さらに彼は文学、とりわけ詩に興味を頂き、アポリネールとエリュアールを愛した。そのプーランクの目指した音楽とは、「甘美にしてけしからぬ音楽」(exquise mauvaise musiuque)であったという。このようなプーランクの美学を鮮やかに射抜いた一節を引用しておこう。
プーランクの「お洒落」とは、ただ「素敵なもの」を上手に選び、洗練された手法で人々に見せることだけではなく、重いもの暗いものを、深刻な顔で取り扱わず、力を抜き、軽いものとしてさらりと投げかけ、通り過ぎて行くことでもあるのだ。( 久野麗『プーランクを探して -音楽と人生と 』より)
今日演奏する「六重奏曲」は、プーランクの作品中最もジャズの影響が強い作品であると同時に、こうしたプーランクの洒脱さが凝縮された作品だとも言えるだろう。 正式な完成は1939年8月末であり、すなわち戦争前夜(1939年9月1日、ドイツ軍がポーランド侵攻)に完成された作品であるということも付け加えておきたい。
第一楽章: アレグロ・ヴィヴァーチェ
三オクターブを駆け上がるトッカータ風の短い序奏に引き続き、四分の二拍子の主部が現れる。ゆるやかな中間部がファゴットの独白によって導かれたのち、最後には元のテンポに戻って華々しく終わる。この曲においてピアノは管楽器の伴奏ではなく、むしろ同等あるいはそれ以上の役割を担っている。
第二楽章:ディヴェルティスマン
アンダンティーノ。緩-急-緩の三部形式で書かれている。第一楽章が急-緩-急という形式で書かれていたことと好対照を成している。「非常に優しく、感情をこめて」という指示が成されたオーボエの主題は忘れ難いものであり、ストラヴィンスキー「プルチネルラ」組曲のなかのガヴォットを思い起こさせる。中間部で非常に明るくユーモアに溢れた旋律とリズムに転じたのち、再びメランコリックに戻って終わる。「自分には木管楽器の血が入っている!」と述べたという、プーランクならではの魅力が溢れた楽章。
第三楽章:フィナーレ
プレスティッシモの主部とレントのコーダから成る、ロンド形式の変奏曲。コーダは「マックス・ジャコブの五つの詩」の第五曲「スリックとムリック」の後半の旋律であり、プーランク自身が「ここは泣ける」と大いに気に入っていたフレーズだという。一楽章の序奏や中間部が静かに回想されたのち、音楽は膨らみながら、最後にピアノが根音にあたる「ド」を打ち込むことによって長七和音を完成させ、印象的に締め括られる。