これは新しいエクスペリエンスだ、と思う。2000席の大ホールでガット弦にフォルテピアノ。最初の一音から、その繊細な音を聞き取ろうとするうちに耳が浄化されていく。
終演後の拍手がきわめてNoisyに聴こえるようになる。ここで拍手している人たちのいったいどれぐらいが、自分がいま鳴らしている音、空間に広がるその音を「聞いて」いるのだろう。それはなんと不揃いで乱暴な音だろうか。そうだ、わたしたちは音を生み出しすぎている。
サントリーホールに染み渡るガット弦の「レカミエ」とフォルテピアノの繊細な火花。ペダルがないフォルテピアノ、ヴィヴラートを最小限にしたヴァイオリンは、持続音を奏でることが難しい。持続音がなければ、ついぼやけてしまう音楽的要素は数多い。しかし持続音の限界を逆手に取り、音の立ち上がりと、転調を決める音のわずかな強調によって生み出される見事な推移部たるや!
空間に音を捧げる。悲しみとひとときの平和。今日ほど庄司さんの肉声と楽器の音色の一致を強く感じたことはなかった。彼女は探求の旅を得て、自分の声により深く、より遠くまでたどり着いたのではないか。
音、それは静寂=完成を壊す罪深き営み、空間に投ずる一輪の神聖な花。一つの空間に集った沢山の人が全力で耳を澄ましてそれを聞き取ろうとする。生み出されたごく僅かな音を壊さないようにと皆でその静けさを慈しむ。ライブの本質は限りない無音の共有にある。
残る人生でどれだけの静けさを共有できるだろう?そんなことを考えながら、ブラームス一番の楽譜を抱えて自分のリハーサルへと移動する。書き尽くせないほど多くのインスピレーションを得た時間だった。あの夜は、2000人でひとりの線香花火の行方を見届けるような時間だった。