この期間、演奏活動ができなかった分たくさんのレクチャーやトークをさせて頂く機会を頂きました。自分のための備忘録も兼ねてまとめておきます。(タイトルは発表当時から若干加筆修正しています)
3月21日 FM大阪「くらこれ」:「貴志康一とヴィラ=ロボス」
4月14日 東京大学「学藝饗宴」ゼミナール オンライン講義:「オブセッション ー カルメン、花の物語」
5月5日 高校生みらいラボ オンライン講義:「つながることと、ひとりでいること ー芸術家たちの孤独の活かし方」
5月23日 福井大学フィルハーモニー管弦楽団:学生指揮者のためのオンライン勉強会 「ドヴォルザーク 交響曲第6番の分析 Part1 交響曲とソナタの形式」
5月26日 東京大学「学藝饗宴」ゼミナール オンライン講義:「音楽の地中海化 ー ビゼー、そしてニーチェ」
5月31日 FM大阪「くらこれ」:「ドヴォルザーク作曲 交響曲第6番について/ドヴォルザークをめぐる音楽家たちと舞曲の数々」
5月31日 Amasia International Philharmonic Youth Committee オンライン講義:「日本のオーケストラの成立過程とオーケストラの未来」
6月13日 福井大学フィルハーモニー管弦楽団:学生指揮者のためのオンライン勉強会:「ドヴォルザーク 交響曲第6番の分析 Part2 和声、緊張と弛緩」
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詳細については、過去のブログで簡単に紹介しているのでどうぞご覧ください。とくに5月5日の高校生みらいラボでの講義は、コロナ期間に私が考えていることの纏めのような内容でもあり、自分としてはとても満足のいく内容になりました。文字起こししてみたら30,000字ぐらい軽くあったので、いつか本にしたいなと思っています。
また、ここには書いていませんが、芸術監督をしている東京大学「学藝饗宴」ゼミナールにて今年はジル・ドゥルーズを読んでいることもあり、しばらくドゥルーズの著作を読み進めています。6月9日にはドゥルーズの専門家でいらっしゃる大阪大学の檜垣立哉教授とディスカッションもさせて頂き、学生のみならず私にとっても大変学びの多い時間となりました。先生が監訳されたばかりのエリザベス・グロス『カオス・領土・芸術』は、芸術の本質をするどく抉る一冊で、最近ずっと読み返しています。
指揮の機会は2020年度中はコンサート本番はなかなか難しいかもしれませんが、リハーサルは少しずつ始まっていきそうです。また、2020年度の多くがキャンセルになったこともあってか、2021年度以降のご依頼は次々と頂戴しております。ありがとうございます。今年は演奏の機会が少なくなったぶん、これまでも東京芸術劇場などで試みてきましたように、講演・執筆に加えて演奏の場を再構築することが自分の使命であると任じ、そこにエネルギーを使って参ります。コロナ以前からオーケストラの世界は経営面やシステム面でかなりチャレンジングなところがありました。今回のことはさすがに誰も予想できなかった悲劇であるとはいえ、一方では、これまで水面下にあった問題が顕在化したという側面も否定できないと思います。
これをどうして立て直していくのか。目に見えないものが問題であるからこそ、「正しく恐れる」ことが必要です。ここで述べた「目に見えないもの」とは、ウイルスのことだけではなく、人と人の間に生まれる権力構造や同調圧力のことも含んでいます。「自粛警察」などのニュースを見ればみるほど、むしろ我々が本当に懸念すべきは後者のほうではないかとすら思います。
ともあれ、命>音楽ということは第一の前提であるべき。これは揺るぎないものです。音楽は決して不要ではないと信じていますが、命を守る行為に比べて不急のものであるのは事実です。そのことをシビアに認識したうえで、本質を見極めて方策を定め、ルールを策定し、一時しのぎではなく(もちろんそれも維持するためには大切です)10年・20年先を見据えた長期的な視野でプランを考えなければいけません。こうした俯瞰的な議論は音楽業界だけでやるのは難しいでしょう。いまこそ他の専門分野の方々といっそう議論し、連携していくことが求められています。そのことを各分野の一線で活躍する友人たちや先輩方に話したところ、オンラインではありますが定期的にディスカッションをすることが出来ており、なるほどこういう発想があったのか、ここが問題に見えるのか、と毎回たくさんの驚きをもらっています。
5月末にAmasiaでレクチャーした「オーケストラの未来」では、こうして考えてきたことのほんの一部をお話ししてみました。より詳細な策や具体的な動きについてはまた改めてお知らせすることになるかと思いますが、端的に言えば、私としてはソーシャル・ディスタンス概念をオーケストラの舞台上に持ち込むのは、オーケストラのオーケストラたる所以の最も重要なところを壊してしまうことになるので、相容れないと考えています。それならばオーケストラではなくてもいいのではないかとすら思いますし、なにより、そんな不十分な状態のオーケストラに継続的な応援を頂けるとは考えづらい。配置を工夫することにはこの現状でもちろん大きな意義があると思いますし、やらないよりはやったほうがいいのかもしれませんが、それでずっとやっていけるかというと厳しいでしょう。
応援を頂くには、価値(「可能性」もまた価値です)を示さなくてはいけない。自分にも跳ね返ってくることとして耳が痛い思いですが、価値は「そのもの」に内在しているのではなく、その都度生み出していくべきものです。そういう観点から考えると、オーケストラのオーケストラたる魅力のひとつ、価値を生み出す源泉のひとつを放棄して、しかし数多ある文化芸術の中から継続的にオーケストラを応援してもらえるという未来は、私にはなかなか想像がつかないのです。それだったら従来のやり方通りでできるものや、あるいは日本固有の伝統芸術を支援しようと思うかもしれません。ましてや普段オーケストラにさほど親近感のない世代にとっては…。
それよりはむしろ、発症が判明するまでの二週間の幅を見ながら「奏者は誰も感染・保菌していない」ということを事前にきちんと示すことができるようにして集まり、いかに接触せず会場入りするか-いかに外部と接触せずリハーサルの数日を過ごすか-いかにお客様やスタッフの方々の安全を保つか-を工夫し、そのうえでオーケストラの配置については通常通りで演奏するようにした方が未来があるのでないかと思うのです。というより私はその方法のほうに興味を持っています。あるいは、もう根本からひっくり返して全く新しい形態を考えるかのどちらか。
どれだけ留保を重ねてもセンセーショナルに切り取られてしまう世の中なのでふたたび強く申し添えておきたいのですが、ここに挙げなかったやり方が無意味というのでは決してありません。実際には、ワクチンが開発されるまでのあいだは、あいだを保った状態で演奏する機会が増えてくるでしょう。あいだを保って演奏する、というのが苦心の策であり、多くの人たちの奮闘を経たうえで今できる限りのベターな持続策であることも承知しています。上で述べたことは、私がいま興味があるのがこうした方法だというだけに過ぎませんし、実現させていない以上はいまだ思考実験の枠を出るものではありません。でも、私はここに可能性を見出していて、様々な専門家たちと協働して粘り強く考え続けたいと思うのです。
端的に、と書きながらついつい筆が滑り始めてしまいました。この先はまた記事を改めることにしましょう。