ヘルベルト・フォン・カラヤンが今も生きていたら、どうしただろうなと最近よく妄想する。Youtubeで気軽に映像を見たり、多くのひとが撮影や編集、配信出来る可能性を得た世の中。そして生演奏を届けることができなくなった今。
コンサートは3000人の聴衆にしか届かない。映像なら数万人数億人の人に届けることができる。そのことを強烈に認識し、実行に移したのは、オーケストラの世界ではカラヤンが嚆矢だった。そこに確信を持つきっかけはベルリンフィルとの日本ツアーだったと言う。日本でのコンサートはテレビ放送され、とんでもない視聴率を得た。コンサートを終えてホテルに戻ってみれば、ホテルで自分たちの映像が流れていて、みなが食い入るようにそれを見ている光景を目の当たりにしたそうだ。
とりわけソニーと親しくして新しい技術に貪欲な興味を持ち、取り入れられるものなら何でも取り入れようとした。まだ普及していないCDに注目し、これが未来のメディアになると予見してみせた。一方で映像のクオリティには凄まじいまでのこだわりを示した。もはや誰が映像ディレクターかわからなくなるぐらい、カラヤンが指示を出し、演出し、カラヤンが納得するまで撮り直し続けたと聞く。そのことをめぐってオーケストラとは大きな軋轢も生まれてしまっとはいえ、彼が挑んだことの価値と、残したものの素晴らしさは変わることはない。
指揮者として見れば、残された映像は彼の「暗譜」そのものだと感じる。なるほど、彼はここで「これ」を聴いていたのか。ここを美しいと思っていたのか。まさしく彼は、音を視えるようにした。それができたのは、彼が強烈に「視えていた」からだろう。だから彼は目を閉じて指揮した。視えているがその場にはないものを視ることに集中し、視ているものを限界まで高い純度で現実と同化させるために。
彼の音楽は勿論のことながら、彼の問題設定の鋭さ、未来に対する予感、新しいものに対する柔軟性。そういうところに憧れてやまない。使えるものは何でも使いたいし、失敗も成功もやってみなければわからない。カラヤンですら大いに失敗したように、挑戦しないよりは挑戦して失敗を重ねたい。今を消費するのではなく、未来に向けて切り開いていかなければ消え失せてしまうという危機感がある。
そんなふうに、劇場で演奏をすることが叶わなくなり、せめてもの可能性として配信を試みるアーティストが増えた今、カラヤンのことを思わずにはいられないのだ。当時としては革命的で賛否両論あるベートーヴェン「田園」映像のカメラワーク。それはいま流行りのリモートアンサンブル映像のコマ割りと良く似ているような気がする。iPadとiPhoneを持ったカラヤンを見てみたかった。今ようやく時代がカラヤンに追いついたというのは言い過ぎだろうか。iPadとiPhoneを持ったカラヤンならこの状況で何をするだろう?ライブ配信、トーク番組、新しい技術の習得?あるいは、もっと途方もないアイデア?
答えは誰にもわからない。亡くなったあとはどうしますか、という質問に対して、「大きな望遠鏡の横に座って空の上からみなさんを見ていますよ」と冗談めかして答えたカラヤンのことを思う。音楽の中身だけでなく、これからの音楽のありかたについて考えようとするとき、あの人ならどうするだろう、と考えさせてくれる音楽家。そういう人に僕はなりたい。