「書く」のではなく「書けてしまう」。そういう次元に自分を持っていけるかどうかが問題なのだ。少なくとも自分にとって物を書くということは、書く努力をするのではなく、そういう次元を作り出すために何をするか、ということのほうが大きいのかもしれない。
数ヶ月書けなかったものが今日の昼下がりに突如書き上がる。水のなかに潜ったみたいに無呼吸で、気づけば1万字のものができていた。
なぜ書けてしまったのか?その時何が起こっているのか?書きあがったあとの帰り道、そのことを考える。おそらくは特別なことではなくて、根本的にはインプットが足りていなかったにすぎない。
けれども、アウトプットに転化するぐらいインプットを注ぎ込み続けて、最後にちょっとだけ「揺らす」。まるでコップから水が溢れるみたいに。この「揺らし」が何であるのかが決定的に重要なのだ。
僕の人生のクレドは、自分に文章を書かせてくれるものやひとの側に在ること。それはつまるところ、こうして「揺らす」ものの側にあり続け、ふと巡り会うような「揺らすもの」を捕まえ続けることなのだろうと思う。それは、午後に陰りはじめる陽射しかもしれないし、無限に打ち寄せ続ける波かもしれない。お気に入りのカフェのコーヒーかもしれないし、スーパー銭湯のシャワーの強い水圧かもしれない。あるいは街ですれ違った人の香り、意味を成さない雑踏の喧騒、後先考えずに浪費する買い物の快楽…。
そう考えていて気づくことがある。コロナが広がる世の中になってからしばらく、文章を書くことが大変になった。人と交流する機会が減った。夜にこもってコーヒーを飲むことができる場所がほぼ全滅したので、日の出までに何かを書き上げて、白んだ夜明けを歩くようなことができなくなった。
あるいは、移動中にハッと閃いてカフェに飛び込み、コーヒーの力も借りて原稿を一気に仕上げる。そんな仕事のやり方ができなくなった。リハーサルを終えた帰り道に腰を落ち着けようと思っても、そんな時間にオープンしているところがないのだ。
自分をゾーンに入れてくれるものは、案外こうしたノイズだったのかもしれない。静寂に価値があるのと同様に、ガサガサしたものにも価値がある。私たちは、なんと多くの「無駄なものたち」に生かされていたことだろう!