教えることは学ぶこと。どちらが先生で学生かなんて、そんな区別は時に必要なくなり、「共に学ぶ」という振る舞いだけがそこにある。ジョルジュ・バタイユを扱った今日の東京大学「学藝饗宴」ゼミナールは、僕にとってそんな時間になった。
講義を担当してくれたのは、このゼミナールのOBであり、かつてこのゼミナールでバタイユに触れてバタイユを耽読するようになった学生さん。悩みながらも自分の血肉としつつあるその講義は、彼ならではの静かな温かさと緊張感を湛えたもので、みなに混じって僕も講義を聴きながらとても幸せな思いがした。配慮の行き渡ったオリジナルのワークショップも素晴らしく、「頭で理解するだけではなく身体で感じることを大切にしてほしい」とこのゼミで今まで言い続けてきたことが十分に実ったように感じられた。それこそが、このゼミを鈴木先生と構想したときからずっと一貫して主張してきたことだった。
ちょうど昨年の今頃。このゼミナールでは、私が尊敬する緊縛パフォーマーのダリアさんをお招きして、緊縛の授業とワークショップをして頂いた。口にくわえられた赤い糸をみなで握り、ひとりの女性が縛られていく際の息遣いや緊張感を静寂のなかで味わう。そして、そのあとにはみんなが縛り、縛られることを教わる。おそらくそれは、みなが頭でイメージしていた「緊縛」とは異なり、むしろ神聖な体験であり、主客の関係性や「支配」とは何かを直感する時間となったことと思う。
同様に、学生たちは今日のワークショップから何かを見出すだろう。そしてOBの彼が紹介してくれたバタイユや中川幸夫のいけばなを通じて、自分にとって何が問題であるかを考えるのだろう。「何か」ということ。それは単一の答えに導くものではない。人それぞれに拡散や収束のやり方があっていい。我が師・小林康夫の著書にある通り、「君自身の哲学へ」向かうことが目的であり、講義とはそのためのトリガーにすぎない。
僕は僕で、今日に備えてひさしぶりにバタイユに関するものを読み返した。学生時代、バタイユの大専門家である湯浅先生から教えを頂いた頃のノートを掘り返し、未読だった『マネ』論を読んだ。本棚から見当たらなくなってしまった、ちくま学芸文庫の『純然たる幸福』を再び手に入れた。バタイユにとっての「祈り」とは何であったのだろうか。そういう問いが頭に浮かんだ。
講義後には、ハロウィーンということでゼミ生お手製のパンプキンドリアが振る舞われ、同じくハロウィーンということでコスプレをしてきた学生さんたちと一緒に写真を撮った。違う世代のひとたちと語る場があって、自分の専門ではないことを学び続ける環境があるというのは、本当に幸せなことだ。それはつまり、ときどき「生き直す」ということで、そのたびごとに自分を新しく作り直していくということだろう。
日々を新鮮に生き直しながら、いつしか、寝ても醒めても頭から離れなくなるようなオブセッションのごとき問いに、自身の哲学にたどり着く。「学藝饗宴」は、そのための「身振り」でありたい。