自宅にポール・シニャックの複製画を迎えた。「サン=トロペの港」と題されたシニャック屈指の作品だ。1901年-1902年の制作、つまり19世紀から20世紀への転換の時期に描かれたこの作品を眺めて、この一ヶ月半はひたすら家で過ごした。
港。それはいつも僕を惹きつける。ここには対照的なものが共存する。港は出発の場所であり、到着の場所でもある。船は繋留されて陸との接点を持ちながらも、その身体は海にある。つまり既知と未知の境目、あわいの領域でたゆとう何かが港にはある。駅は?駅-鉄道ではだめなのだ。どうしようもなく見えてしまうレールがあるから未知の感触は薄い。帆が風で羽ばたきながらも、しかしどこへ向かっていくかわからない余地が残されているのが港-船の良さだ。
シニャックが描いたサン=トロペは、その当時小さな漁港だった。シニャックはサン=トロペに滞在して多くのものを発見した。盟友ジョルジュ・スーラ(1859-1891/享年33歳)と共に取り組んでいた点描画法から、「自身にとっての」点描画法へと移行していった。シニャック自身の様式の決定的な変化が、世紀転換期のこの一枚にはとりわけ凝縮されているという。
この絵を見ていると、なぜサン=トロペの港に彼はこれほど惹かれたのだろうかと考えずにはいられない。風景が、光が、色彩が美しかったから?もちろんそれもあるだろう。でも、それだけではないような気がする。シニャックはどこかでここに、対照的な諸要素の緊張関係を予感したのではないか。小さき漁港に無限の広がりを見て、スーラを超え出た新しい手法を、つまり「自身にとっての」なにものかを宣言する可能性を直感したのではないか。
絵画史上の扱いはさておき、僕がいまこの絵に激しく共感するのは、上で述べたような港の港らしさが鮮やかな軽さを備えて表現されているところだ。この作品には、明けていくものと暮れていくものが同時に描かれている。憩う人と働く人が共に在る。狙い撃つ釣り人と、ただ竿を垂らすだけの釣り人とが並び立つ。空と海、太陽と水、自然と人工、偶然と恣意…様々に対照的な要素が同時にあって、近くで見つめればそれらは限りなく溶け合うようでいながら、目を離せば不思議と融けることはない。だがその「あいだ」に、「あわい」に驚くほどの要素が宿る。伝統的な構図の堅牢さを織り込んだうえでの心地よい曖昧さがある。
港というイマージュが持つ豊かさ。そしてサン=トロペに描かれた多様なふるまいの共存。そこに感動してしまうのは、ウイルスが世界を変えてしまった今の状況と無縁ではない。このコロナの期間、世の中には多くの「ーすべきだ」が溢れた。命を守るための行動が最優先で、家にいることが必要であるのは言を俟たない。しかし人同士が監視しあい、「ーしよう」抜きの「ーすべきだ」を押し付ける状況には辟易とした。人それぞれに役割や生き方がある。みながみな、大きな仕組みを考えなくてはいけないわけではないし、世界を変えようとし続けることもない。自分を高めることに時間を使ったり、身近なものを慈しむことも大切だろう。大海原に進み続けることだけが価値ではなく、港に停泊することもまた素晴らしいことなのだ。
眠るもよし、歌うもよし。「ーすべきだ」から、いくらか解放された自由な空間。伸びやかな叛逆。サン=トロペの港に描かれているのはそれだ。
33歳は、そんな景色を抱えて生きてみようと思う。