雲の先に

ラフマニノフのソリスト初合わせのためフライト。台風の影響で離陸は揺れに揺れてあわやという感じだったが、雲を抜けた先には美しい夕暮れが広がっていた。

折しも開いていたのは2番のピアノ協奏曲。猛烈な揺れの中で、ああ、この協奏曲を勉強しながら死ぬのかなあ、なんてことを思う。だからこそ、その先に広がった夕暮れに心奪われた。生きなければ、と思った。ラフマニノフはこの曲で絶望の淵から立ち戻ったことを思い出し、夕暮れと音楽が重なって何だか泣けてくるものがあった。

シェリーのIf Winter comes, can Spring be far behind? – 「冬来りなば春遠からじ」が頭に響く。中学生のときに出会って以来大好きな一節。そう、いつも明日は来るのだ。大変なことも少なくないが、妥協なく、そして筋を通した生き方をせねばならない。自分に嘘をついたり、弱っている人が側にいるのに見て見ぬ振りをするような生き方はしたくない。イタリアの日々で教わったことの一つは、Io faccio あるいは Io voglio と主語を私にして言い切る強さ。「だから指揮者は指揮者なんだろう?」と教えられて、ローマから連綿と続く帝王の文化を垣間見た気がしたのを思い出す。

とにもかくにも無事着陸。ラフマニノフの解説書を読み進めるたび、ラフマニノフに頻出するヴィオラの旋律が、自身を立ち返らせてくれたダーリ博士への親愛の情のように聞こえてくる。立ち直らなければともがく苦しみ、精神を崩したひとと共にいることの苦闘。それはどちらも、言葉が追いつかないほど難しいことだ。だからいつも、ラフマニノフの音楽は儚き何物かを思わせる。少なくともピアノ協奏曲第二番においてはそうだ。いつまでも揺れ動き解決されない、決して届かない「なにか」。絶望と希望が拮抗して立ち現れてくる「祈り」…。

 

 

rach.
rach.
Last Modified on 2019年10月25日
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