蓮實重彦先生の三島由紀夫賞受賞での質疑応答が世を騒がせている。蓮實先生に直接教えを頂いたことは勿論なかったが、蓮實先生の「伝説」をしばしば聞かせて頂いた身からすると、やっぱり凄いなあと思ってしまう。あの質疑応答に対して何かを私が言うことなど出来はしないけれども、蓮實先生のとても素敵な一文を引用しておきたい。1999年の長大な式辞の一節である。
…だが、人間の思考は、いつでもそのようにして頽廃してゆくものなのです。そして、知性の名において、その頽廃にさからわねばならないというのがわたくしの考えなのです。[…] わたくしは、この式辞を終えるにあたり、その確信を、ここにおられる一人ひとりに、祝福のしるしとして送りたいという誘惑にかられております。あなたがたは、そうした祝福の表明に齟齬感を覚えるかもしれない。違和感をいだくかもしれない。隔たりの意識を持たれるかもしれません。だが、かりにそうだとしても、それを処理するために動員される知性を、東京大学と深いところで接触する契機としていただきたい。そう口にすることだけが、教室であなたがたと親しくする機会を奪われたいまのわたくしに、かろうじて許された贅沢となるはずだからです。(了)
式辞の終わりにおかれた、教育者としての蓮實先生の愛情(あるいはユーモア)が滲み出る一文もさることながら、知性の名において頽廃に逆らえという闘争の宣言が突き刺さる。ここにあるのは、人間への絶対的な信頼や賞賛とは全く異なる「羞恥心」とも言うべきものであろう。常に自分の未熟を恥じよ。無力を知りつつ、だからこそ知性に賭けよ。そう語る先生の筆は、長大な一文を一気に読ませてしまうような気迫に満ちているように私には感じられるのだ。知性の名において頽廃に逆らえ。この言葉を常に刻んでおきたい。