2月9日に愛知県立芸術大学で初演する現代曲の譜読みをしている。年明けから勉強し始めていて、未だ十分に頭の中で音が鳴り切らなかったのだけれど、背景に置かれているマラルメの詩を楽譜に書き込んでみた瞬間、突然音が鳴り始めた。作曲者のこだわる「音響の発展」とはそういうことだったのか、と腑に落ちる。音響で描き出された時制の転換。いい曲だな…と思える。
1小節毎に変化する極めて複雑な拍子に囚われて、曲自体のロマンティックな要素に目配りできなくなっていたのかもしれない、と反省した。まずポエジーがあり、そのあとに拍がある。拍は音楽を共有するための極めて重要な要素だが、創作の過程の根源にあるものはポエジーなのだ。どちらか一方ではなく双方を無限に往復しなければならない。その意味において、指揮は舞踏と限りなく近い。
常にポエジーを探り当てよ。作者の思考に深く潜り込みつつ、そこから脱して生成せよ。大学院時代に表象文化論を教わった小林康夫教授の言葉であり、言葉をかえて寺田寅彦教授がおっしゃっていたことだった。作品を理解し生成し直すとはそういうことで、それが「愛する」という言葉に集約されていくことはとても自然なことだろう。
いま、私はこの作品を深く愛す。未だ誰も音にしたことのないこの作品を、作曲者が立ち会うなかではじめて音に出来ることを、限りない喜びに思う。