アリアを聞きながら、その人が手に収めている時間と空間の広がりを考える。時間の見通し。意識の触手を延ばしうる空間のサイズ。それを「巻き込む力」と言い換えても良いだろう。すっかり親しくなった歌の友人たちの素晴らしい演奏を聴かせて頂きながら、第一声目から人の心を鷲掴みにする「何か」はこの要素に尽きると思った。
武満徹の「小さな空」を、「蝶々夫人」の最後のアリアを、あるいは「運命の力」の最後の絶唱をわずか数十センチの距離で聴きながら、とても沢山のことを考えた。ただ声量のみによって我々は感動するのではない。声によってそこに全く普段と異なる空間が突如立ち現れることに、そしてまた、声によって、作り出された空間が刻々と姿を変えて行くその様子にこそ、肌の震えを覚えるのだ。
自分を音楽の世界へと導いてくれたハイドシェックの演奏に接したときのことを思い出す。あれは大阪のいずみホールで、そのころ私は浪人生だった。ショパンの有名な「舟歌」をハイドシェックが弾きはじめた途端、ホールの空間から急に、光あふれる波間に投げ出されたような思いがした。さきほどまでと全く違う空間がそこに立ち上がり、音がまるで水の反映のごとくきらきらと降り注いでくるような錯覚を覚えた。舟歌特有の揺れるリズムに、まどろむわけでもなければ明晰なわけでもない、「たゆとう」という言葉がぴったりな時間が流れはじめた…。
空間と時間の変容、ということを音楽の要素のひとつに考えたときに、「歌」というのはその最もラディカルな変容を可能にするものだと思う。なぜならば歌は、楽器という道具や儀式を一切必要としない。さきほどまで普通に側で話していた身体が、振り向いた途端にカルメンの奔放な自由さを宿し、アルレッキーノの訴えを体現することができる。たとえ歌詞が分からなくとも、何かを確実に立ち上げうる第一声の「Ah,」によって、聞くものの心は否応無く掴まれる。
指揮もおそらく同じであろう。あの細い棒を一閃させた瞬間に我々は何かを起こさなければいけない。指揮の師である村方千之先生の言葉を用いれば「ロマン」、大学院の日々に指導を頂いた小林康夫先生の表現を用いれば「出来事」ー 今の私ならそれを「時間と空間の立ち上げ」と言い換える。極めて明確に振るのだが決して交通整理のようなものではなく、混沌を恐れず何かを立ち上げる棒を、出来事を語り、時間と空間を造形する棒を振れるようになりたい。
姫路・京都・東京と一週間近く行動をご一緒させて頂いた皆さんとの別れは少し寂しく、一方で自分に新たな決意をもたらすものになった。このタイミングで歌に出会えたことを幸せに思う。焦らずゆっくりと満ちていかなければならない。いつの日か、また必ず。