32歳、喪を得ること

いま自分は大きく間違った選択をしているのではないか、という焦燥。32歳となったいまの感情をただ率直に示すならこうだ。


こう生きるべきではないのではないか?最も遠くに行けなくなる選択をしようとしているのではないか?自分の爪の先はどんどん丸くなっているのではないか?そんなことを考える。なぜか?それはこの一年、文章が書けなくなったからだ。正確にいえば、「自分のための」文章が書けなくなった。17の頃からずっと続けていたように、深夜に原稿用紙に向かって万年筆を休みなく走らせるような、そんなゆとりをこの一年間は失ってしまった。そして、誰かを傷つけてしまわないように、波風立てないようにと全方向に注意を払った文章ばかり書くようになってしまった。

何かに拘束されるのが嫌で嫌で仕方なかった自分が、いつの間にか沢山の縄に絡め取られていたことに気づく。「君もそこまでか」と畏友たちは笑うだろう。僕にとって深夜に「自分のための」文章を綴るということは、そういう状況にいち早く気づいて脱出を試みるための身振りでもあったことに今になって気づくのだ。

それは、喪だ。ひとは生きるうちにどれほど多くのものを喪うのか。先日ご一緒させて頂いたハービー・山口氏の写真が脳裏によぎる。しかし喪うことは得ることなのだ。前に進むということは喪うということとほぼ同義なのだ。喪って、違う何かを得たあとに、喪ったものがまた「再帰」するように呼び込み続けるべきであろう。

32歳。僕は自分の言葉を喪った。かわりに荒れ狂うような感情を得た。楽しさや官能だけではなく、絶望や怒り、暴力や痛みといったダイナミズムに触れた。人ひとりのなかには、これほどまでに多きな振れ幅が宿る。いまなら、チャイコフスキーが少しだけ近しく感じられる。

Plonger au fond du gouffre, Enfer ou Ciel, qu’importe ? 裂け目の奥へ飛び込んで、地獄も天国も知ったことか
Au fond de l’Inconnu pour trouver du nouveau !  新しきものを探し出すため、いざ未知の底へ!

焦燥だけがあって、後悔はない。踏み込んだ沼は踏み抜くまで尽くすしかない。
退却すべき時期は遥か彼方に過ぎ去った。心地よい焦燥に支えられ、道なき道を歩み続けよう。

 

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