「憧憬と超克の芸術家、貴志康一」

「貴志康一 生誕110年 交響曲『仏陀』演奏会」(with 芦屋交響楽団)パンフレットによせて執筆した「仏陀」交響曲についてのエッセイと、当日の演奏から1楽章の抜粋動画を掲載させて頂きます。執筆・演奏にあたっては、文章中に紹介致しました各研究書を大いに参考とさせて頂きました。この場を借りてお礼申し上げます。

 

「憧憬と超克の芸術家、貴志康一」     執筆:木許 裕介

貴志康一は1909年生まれ、大阪府吹田市出身。1918年に芦屋に居をうつしたのち、甲南学園に小・中・高と通う。「阪神間モダニズム」の真っ只中を生きた彼は、はじめ画家の道を志すも、 1921年、来日中の世界的ヴァイオリニスト、ミッシャ・エルマンのコ ンサートに衝撃を受けて音楽の道に進む。

宝塚交響楽団の指揮者であったヨーゼフ・ラスカに音楽理論と作曲を師事。1926年、 大正から昭和へと元号が変わるなか、欧州航路船にて単身スイスへ渡り、ジュネーヴ音楽院に入学。次いでベルリン高等音楽学校でカール・フレッシュにヴァイオリンを師事。1710年製ストラディヴァリウス「キング・ジョージ三世」を購入し、自身の愛器とした。

1937年に没するまで3度のヨーロッパ滞在を経て、ベルリン・ フィルの指揮者であったフルトヴェングラーと交流を持ち、ヒン デミットに作曲(とくに映画音楽)を師事した。彼の一貫したテー マは、「音楽演劇殊に東洋両洋をまたにかけ其れを全うせん」 (1931年6月22日書簡)ということであり、ヴァイオリニスト、作曲家、指揮者、さらには映画監督など、多様な角度から舞台芸術に切り込み、わずか28年という彗星のような生涯に多彩な輝きを放った。プッチーニやリヒャルト・シュトラウス、ガーシュウィンやラヴェルとほとんど同時代を生き、日本と世界の文化的差異を鋭く見つめ続けた。音楽家として貴志が稀有の存在であることには疑いの余地はないが、「日本、ひいては東洋に生まれた我々は、いかにして西洋 のパフォーミング・アーツに立ち向かっていくか」という問いを考え続け、挑戦し続けた点においても、貴志は不滅の先達であるといえるだろう。

本日演奏する交響曲「仏陀」は1934年11月18日初演。25歳の若さで貴志がベルリン・フィルの「日曜コンサート」を指揮するという機会にあわせて作曲された。貴志より以前に、ベルリン・フィル を指揮してモーツァルトやシューベルトを演奏した近衛秀麿を意識して、「しかし僕のは僕自身の曲を発表するのです」(1934年6月4日)と書き残したように、貴志にとっては、ベルリン・フィルで自作を自演するということが極めて重要であった。

毛利眞人『貴志康一 永遠の青年音楽家』によれば、貴志はこのコンサートにおいて当初は以下のようなプログラミングを希望していたという。

1.ワグナー:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲   
2.貴志康一:交響曲「仏陀の生涯」
3.貴志康一:管弦楽伴奏による日本歌曲
4.貴志康一:交響組曲「日本スケッチ」
5.リヒャルト・シュトラウス:交響詩 「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」  

 

最終的には、ワグナーはグルックの「アルチェステ」序曲に変更となり、「日本スケッチ」のあとにはドビュッシーの「牧神の午後」 前奏曲が追加されることになるにせよ、当初の貴志のプログラミングには驚かざるを得ない。ベルリン・フィルの演奏会において、 ワーグナーとリヒャルト・シュトラウスという、ドイツ・オペラおよび ドイツ・ロマン派の系譜を受け継ぐ音楽家の作品に自身の作品を挟む  ̶ それは、日本のどの音楽家もそれまで成したことのなかった提案であり、2019年の現在においてもなお容易なことではないだろう。

このプログラムの中で最も長大な時間を要するものは、やはり 「交響曲」、すなわち「仏陀の生涯」である。しかし『貴志康一と音楽の近代』(青弓社)で中村仁氏と白井史人氏が指摘するように、 この時点では、貴志はヴァイオリン・ソナタや協奏曲など、多楽章構成の作品をいまだ完成させていない。つまり、この交響曲が貴志にとって初めての多楽章形式の作品となっている。こうした背景からも、どれほど貴志がこの交響曲「仏陀」に賭けていたかを想像することができる。

作曲は1934年の8月頃に集中的に進められた。当初は七部形式で、「仏陀」の生から死を描く構想であったことがわかっている。だが、最終的に貴志は、交響曲の伝統的形式である四楽章形式に自らのアイデアを収束させる。七部構想が四楽章形式 になっているからといって、この作品は「未完」に終わっているのではない。一楽章冒頭と四楽章終結部は重なり合うような構造になっていて、まさに「輪廻」のごとく、始まりと終わりが永遠に繰り返されるような形式によって完成されている。どの楽章も貴志ならではの美しいメロディーと独特の管弦楽法に彩られていて、 聴くものに鮮烈な印象を残すことだろう。

「仏陀」という標題がどのような役割を持つのか、どのような背景のもとに着想されたかについては種々の説があるが、筆者としては、この作品は必ずしも宗教的な意味での「仏教」や「仏陀」という標題のなかに留まるものではなく、より大きなスケールを持った作品であるように感じている。貴志自身、初演時のプログラムにおいて下記のような解説を付している。

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貴志康一の交響曲『仏陀の生涯』はアジア独特の精神的雰囲気をあらわしている。インドの照り輝く太陽。巨大なヒマラヤ山にかかる月。終わることのない夜の静けさ。黄海のざわめく波。見渡すことのできないほどの中国の平野。広大な長江。ここに数千年来、仏教が根を下ろしているのである。

 

 

第一楽章は果てしないアジアの広がりをあらわしている。そこでゴータマ・ブッタは生まれ育ったのである。ここで彼の魂は澄み渡り、長い闘いののち彼は真に啓示を与えられた者となったのである。 第二楽章は気高く慈悲深い女性像であるマヤについて語っている。彼女は日本においては女性の理想像である。第三楽章は仏教における地獄の苦しみを伝える不気味なスケルツォである。日本の説話によれば、地獄の入り口には亡者たちを裁くことを務めとする「閻魔大王」が立っている。 第四楽章はブッダの浄化と涅槃入りを示している。

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ここに見られるように、貴志にとってこの交響曲は「アジア独特の精神的雰囲気」を描いたものであった。西洋のクラシック音楽は、グレゴリオ聖歌に代表されるようにキリスト教文化と密接に結び付いている。というよりむしろ、キリスト教文化を源流として西洋クラシック音楽は発展してきたともいえる。だとすれば、非西洋文化圏に生まれた我々にとって、キリスト教文化に対置することができるような、東洋の音楽の源流となりえるような、ひいてはアジアならではの精神的土壌となりえるものはどこにあるだろうか?

貴志はそんなことを考えていたのではないか。そうした思考から導き出された標題が「仏教」「仏陀」なのであり、貴志の思索の核心は「アジア独特の精神的雰囲気」という、より広大で普遍的なものを描き出すことにあったのではないだろうか。

西洋に憧れながらも、「日本人も西洋に負けないくらい音楽を理解し、演奏出来るのだと世界に示すこと」を自らの使命とした、 憧憬と超克の芸術家・貴志康一。この「仏陀」交響曲には、彼が生涯を賭けて追い求めた哲学が結晶しているように思われる。

 

※木許執筆による貴志康一関係のエッセイ、トーク、研究記録等は以下からお読み頂けます。

・貴志康一「仏陀」交響曲を終えて

・「仏陀」交響曲の時代 -コンサートプレトークより

・貴志康一、謎の「中間休止」

・「貴志康一生誕110年」記念演奏会

・「貴志康一とヴィラ=ロボス -1930年代日本におけるヴィラ=ロボスの受容」

・憧憬/超克 – 時代の変わり目を生きる-

・音と書のコレスポンダンス

・貴志康一と歌川広重、福井市立美術館にて

・貴志康一「ヴァイオリン協奏曲」プログラムノート

さらに、2020年3月21日収録・放送のFM大阪「くらこれ!」にて、木許指揮の貴志康一「ヴァイオリン協奏曲」「仏陀」交響曲をオンエアして頂きました。ありがとうございます。

下の動画は「仏陀」交響曲1楽章、序奏が終わって提示部に入るところ。まさにここで、崇高な存在が雷鳴の中に姿を現す。そんなイメージを抱いています。

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