カリンニコフ研究 Part2(交響曲第1番と同時代の彼の楽曲、特に歌曲について)

Part1では、カリンニコフ本人の手紙のリーディングを通じて、交響曲第1番執筆時の彼の状況や思考を立上がらせることを試みた。ロシア語からの翻訳ということで私には十分に訳しきれなかったところが多かったかもしれないが、交響曲第1番に彼の人生が深く刻まれているということは疑いないものになったように思う。Part2では、交響曲第1番を作曲していたころと並行する時期の彼の楽曲を見ておきたい。とりわけ、ピアノ4手による「交響曲第1番の主題によるポロネーズ」(Полонез на темы Симфонии No. 1)、および歌曲(たとえばアレクセイ・プレシチェーエフの詩によるНам звёзды кроткие мерцали)が重要になるだろう。

最初にカリンニコフの交響曲第1番の楽譜を見たときに、直感的に、すべてが主題と変奏のような形式になっているのではという印象を受けた。冒頭のあの印象的な旋律(第1主題)はあくまでも第2主題のための導入ではないのか。実はこの第1楽章というのは、第1主題と第2主題という形式で捉えるよりは、ただ1つの主題をめぐる変奏ではないのかという気がしていた。つまり、一般的に第2主題と呼ばれているこの旋律こそが、真の主題なのではないか?

楽譜からそう感じて、この問いを頭に置いたまま、カリンニコフの手紙を捜索していてふと気づく。カリンニコフは自身の手紙に、「翼を広げるような」気持ちになる主題の交響曲を書いている、と記した。この手紙を書いている時期に取り掛かっていた交響曲は、間違いなく交響曲第1番。とすると、「翼を広げるような」主題と彼が表現したものは、いったいどれだろうか?第1楽章のいわゆる第2主題であるような気はするが、これがそれだというふうに、どうやったら特定できるのだろうか。

こうした思考からリサーチを重ねていって、ピアノ4手による「交響曲第1番の主題によるポロネーズ」というカリンニコフ自身の編曲作品に出会う。ロシア語に冠詞はない(ついでに言うとペルシア語にもないことを最近知った)ものの、このポロネーズの原題というのは、ロシア語が堪能な友人たちによれば、どちらかといえばa theme(ある主題)ではなくthe themeというニュアンスを持っているように思われるという。というふうに考えると、これは交響曲の中から主題を一つ取り出して作ったポロネーズというよりは、「交響曲を支配するあの主題に拠って」というニュアンスにとることができよう。ならばこのポロネーズにおいて取り上げられている主題を見ることが、自分が直感的に得た問いに対する直接的な回答になるかもしれない。

「交響曲第1番の主題によるポロネーズ」の楽譜を取り寄せて驚く。ファンファーレの先に続くポロネーズのリズムに変容された「主題」は、まさしく、我々が第1楽章第2主題と呼ぶものであった。彼にとってのThe Themeはこれであったのだ。すなわち、カリンニコフが「翼を広げるような気持ちになる主題」と手紙に書き残したあの主題はおそらく、この主題であった可能性が高い。

これらを鑑みると、最初にこの交響曲の楽譜を開いたときに得た自分の直感に、少しばかり論理的な裏付けを得ることができる。つまり、第1楽章を第1主題と第2主題という2つの主題によるものとして捉えるのではなく、第1楽章の唯一の主題=翼を広げるような気持ちになる主題=のちにポロネーズ化されることになる主題として捉えて、音楽の作り方を検討していくことができるのではないか。

「第1楽章の唯一の主題」は第4楽章で再帰する。この楽曲がある種の循環構造で書かれていることは間違いない。従ってもはやそれは、「カリンニコフの交響曲第1番を通した主題」と言ってもよいもので、このように考えると全体の作り方が定まってくる…。

そしてここから、自分なりの作り方に至ったのだ。じゃあ、どこをどのように作るのか、ということは、ここでは詳述しない。それを書けばリハーサル数時間分の分量になってしまうし、自分とこの曲を一緒した人たちだけの秘密にしておこう。


同時代の歌曲について書こうと思っていたのに、あっという間に字数オーバーになってしまった。歌曲の詳細な分析はまた稿を改めるとして、ここでは詩人アレクセイ・プレシチェーエフの詩による歌曲を見ることが重要であろう、ということだけは書いておく。

プレシチェーエフ(1825-1893)は「ペトラシェフスキー・サークル」を代表する詩人であり、ドストエフスキーと深く結んだ。25歳から33歳ぐらいまで流刑生活に追いやられる。チャイコフスキーが好んだ詩人の一人であり、チャイコフスキーはプレシチェーエフの「舟歌」にインスパイアされて「四季」の第6曲目「舟歌」を作曲している。ハイネやユゴーの作品をロシア語に翻訳したことでも知られている。

カリンニコフはハイネの作品に深い関心を抱いていた。つまりそれはプレシチェーエフが成したロシア語翻訳を通じてであり、実際にハイネの原詩(Der Konig war alt)をプレシチェーエフがロシア語翻訳したもの(Был старый король)に音楽をつけ、1894年に歌曲として残している。またこの1894年はプレシチェーエフの死の翌年にあたり、同年にはプレシチェーエフ自身の詩から歌曲「私たちに優しい星が輝きかける」(Нам звёзды кроткие мерцали)を作曲してもいる。

「交響曲第1番」を書いていた時期は1894年から1895年にかけて。つまり、この交響曲を書いていたときとほぼ時を同じくして、プレシチェーエフの詩による歌曲を書いていた。このころカリンニコフの頭のなかに強くあった詩人がプレシチェーエフであったことは間違いない。同時期にはレールモントフやコンスタンチン・フォファノフの詩にも音楽をつけてそれぞれ一曲ずつ歌曲として残しているとはいえ、やはりプレシチェーエフは特別な存在であったことだろう。プレシチェーエフの死(1893)は、交響曲第1番を作曲する1894年頃のカリンニコフに相当なショックを与えたと推察される。

したがって、交響曲第1番を作曲中のカリンニコフの頭の中を追体験しようとするならば、あるいは、カリンニコフの手紙に残された数々の心情を理解しようとするならば、それはプレシチェーエフという人物と作品、そして彼の作品につけたカリンニコフの同時代の歌曲を見ることが必要になってくる。死を前にして、生きたいのだと音と言葉でもがき続けたカリンニコフは、逝ってしまったばかりの偉大なる詩人プレシチェーエフと自分を重ね合わせたのではないか。この先はそんなことを考えながら楽譜を読んでいこうと思う。

カリンニコフの一番は、自分にとっては無くてはならないレパートリーである。死と生に対する切実な叫びが溢れる交響曲。私は一生かけてこの交響曲を深め、演奏していくだろう。

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