小林康夫、あるいはシベリウスの二番

夏の夜。私の大学院時代の師匠である小林康夫先生をお迎えして、東京大学「学藝饗宴」ゼミナールのセミファイナル回を開催しました。小林先生と場をご一緒すると、帰ってから文章を書かずにはいられなくなります。それぐらい、小林先生の言葉は私の「内側」を閃光で射抜くのです。

講義は、学生たちが自らにとっての問いをその場で小林先生に投げかけるという形式で進みました。メタファーの可能性について問う学生あり、嘘と悪の関係について問う学生あり。はたまた、花(水仙-薔薇-向日葵)と言葉の関係、無償の愛のありかた、絶対性について……。

先生はその場でひとつひとつの問いと向かい合いながら、わからないものに対しては「わからない」と明言したのち、「それでもなお」と思考を駆動されます。ひとつひとつの問いに向き合い、その場で悩み、考え、語り始める。そのとき、聞く我々もその歩みを共にするのです。どこへ連れていかれるのか分からないスリル。言葉が言葉を生んでいく即興の妙技。そしてある瞬間に<何か>が宿り、パッと霧が晴れるような見通しを得る。そのときに投げ込まれる言葉の鮮やかさといったら!!

私にはいつもそのとき、シベリウスの交響曲第二番が聞こえてきます。三楽章から四楽章に至るブリッジ、空に舞い上がるかのようなアタッカ。混沌たる大地から離れて飛翔するかのごとき、あの美しい接続……。

「出来る限り遠くへ、もっと遠くへ!」駒場の一年生・二年生たちに、熱を帯びて言葉と知性の使命を語る先生。そうなのです。言葉は嘘をつく。言葉はメタファーというテクニックに至ることができる。人間は言葉を操ることができるからこそ、ファジーなものをファジーなまま抱き込み、そこに自分を内在させ、考え続けることができる。だからこそ、もっと遠くへ!精神的、思考的な意味において自分から遠くへ出かけうること。そしてそれは、結果として自分の実存を問うことになる、reflextion-reflexio(曲がり戻ること)の身振りでもある。

私は、先生に出会うことがなければ指揮者を志すことなんてなかっただろう。先生の横に座らせて頂きながら、頭にシベリウスの二番が鳴り響く中でぼうっと考えずにはいられませんでした。遠くへ遠くへ、ともがいているうちに、自分にとって最も近いものに巡り会ってしまう。先生とともに読んだヘルダーリンの「帰郷」。「君が探しているもの、それは近くにあって、もう、君に出会っている」(Was du suchest, es ist nahe, begegnet dir schon.)。

「会ったあとに文章を書かずにはいられなくなるような人と共に過ごす。」それが、私のクレドの一つでありました。それは何かを師事するという行為かもしれないし、愛するという行為かもしれない。美しいものや凄まじいものを見て心震えるということもそのひとつ。

ずっと震えやすい心のままでいられるだろうか。巡り会ったあとに、「にもかかわらず」と遠くへ向かい続けることが出来ているだろうか。そんなことを考えながら深夜、久しぶりに取り出した万年筆にインクを継ぎ足すのでした。

 

小林康夫先生と
小林康夫先生と

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