2015年度秋・灘校土曜講座を担当致します。

昨年に引き続き、今年も母校である灘校の土曜講座講師としてお声がけ頂きました。昨年の講義が幸いにも好評だったようで、生徒さんたちから講義のリクエストを再度頂いて、また今年も講義をさせて頂く運びとなりました。

昨年の講義は、「指揮の比較芸術」ということをテーマに、以下のように要項を執筆しました。

たぶん多くの人がそう思っているように、指揮という芸術は何だか良く分からないものです。自ら音を出すことのない音楽家。一本の細い棒だけを持って大勢の演奏者の前に立つ存在。大事なのは何となく分かるのだけど、そこで一体何をしているか、どうやって音を動かしていくのかは良く分かりません。果たして指揮者は必要なのでしょうか?指揮者は本当に音を変えうるのでしょうか?
私自身はまだ駆け出しに過ぎませんが、師・村方千之から指揮を教わるにつれ、また、国内外の様々なオーケストラで指揮させて頂くにつれ、この「指揮」という営みの途方も無い深みと魅力に取り憑かれました。それは、これまでの人生をある意味で「狂わされて」しまうほどの衝撃でありました。今回の講義ではそうした経緯とともに、ピアノを用いた実演を挟みつつ、「指揮」というこの不可思議な芸術に対して今の自分が見出していることをお話しします。いかにして表現し、いかにして伝達するか。それはただ音楽の話だけで語り尽くせるものではありません。詩や文学、哲学など、古今の様々な芸術論・思想を変奏しながら、生徒の皆さんと一緒に、指揮とは何かということを考えてみたいと思います。

(2014年度講義「指揮という芸術、出来事を導く一振り」講義要項より)

 

ここに書かせて頂いたように、駆け出し中の駆け出しの僕などが「指揮とは~」なんて大上段に語れるわけはありません。ですから私の講義は、ピアノを用いた実演とともに、師匠から受けた教えを私なりに紹介して行くというスタイルをとりました。けれども母校ということで大胆に、いわゆる「オーソドックス」ではないキャリアを通っている身として、自分にしか話せないことを喋ってみたいとも思っていました。それは「指揮の比較芸術」というテーマで、音楽に留まらず古今の様々な芸術論や身体論と比較しながら指揮を考えることで、ある意味で捉えどころの無いこの芸術を言葉によって「変奏」する試みです。

それは当時、修士課程に在籍していた私にとって、東京大学大学院で比較芸術を専門として勉強することと、村方先生のもとで指揮を学ぶということとが、乖離したものではなく、必然的な関連を持ち、互いに強く影響を与え合っているものであることを示す行為でもありました。「言葉にならないものに言葉で肉薄する」ことを目指す人文科学系の学問を専攻していた身として、そうした日々のトレーニングを指揮という芸術に適用してみたい。言葉と音楽のあいだを往来したい。もちろん、それでもなお言葉にならないもの、言葉にしようとすると逃げ去っていくものにこそ、音楽が音楽である意味や音楽の本質が宿っていることを承知した上で、です。(これはとても重要なことだと思います。)

世阿弥にはじまりボードレール、ヴァレリー、リルケ、ドゥルーズ、コクトー、ジャコメッティ、ジャンケレヴィッチ、あるいは偶然にも現場をご一緒させて頂いた荒木経惟氏の佇まい…それが正しいことかどうかは分からないし、自分でも実践できていないことばかりだけれども、学問上の師の一人である小林康夫先生が折りに触れて語る、「僕は自分が知らないことについて書き、話すのだ。」という名言を継承して、即興的に話してみたい。そういう思いで臨んだ三時間の講義が母校の生徒の皆さんの質問の手が引ききらないほど盛り上がり、好評であったというのは、とても嬉しいことでした。

今年の講義ではまた新しい気持ちで、この一年間で学び・考えたことをお話させて頂きます。具体的には、二コマまったく別の講義を開講させて頂き、一コマでは鈴木寛教授のもとで慶応義塾大学SFC研究所上席所員として研究を進めている組織論・リーダーシップ論の講義を、もう一コマでは生徒さんたちの要望に応えて指揮の実技レッスンをさせて頂く予定です。前者ではConvivialité, Objectivité, Hospitalitéという三つの概念を切り口に、後者では「強度と静寂」ということを中心に据えたいと考えています。フライングになってはいけませんので、母校の方に提出した今年度の講義要項が配布され次第、また改めて日程や内容を告知させて頂きます。まずは開講のご案内まで。

 

 

 

それでも逃れていくものへ(GH4+Nocticron)
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