【プログラム・ノートより】カザルス/カタルーニャ民謡「鳥の歌」

5月22日の東京文化会館コンサートのために執筆したプログラムノートを掲載致します。「パリの痕跡」というテーマを浮き彫りにするような形で執筆することを目指したものです。あくまで他のプログラムノートとの比較・連関によって成り立つ解説になっています。また、コンサート当日のプログラムノートは、ここに掲載させて頂くものから随分とカットした短縮版になっています。転載歓迎ですが、ご一報頂くか出典として本サイトに言及頂けたら幸いです。

パブロ・カザルス「鳥の詩」(カタルーニャ民謡)

「この歳になるまで いくつもの国を訪れ、たくさんの美しい土地に出会った。でも私の心に刻まれたもっとも純粋に美しいところはカタルーニャだ。目を閉じれば、サン・サルバドルの海岸沿いの海が浮かぶ。小さな釣り船が浜に引き上げられているソトゥゲの小さな町。牛や馬、ぶどう畑、オリーヴの林を点々と散りばめたタラゴナ地方、リョブレガード川の土手、モンシェラトの頂。カタルーニャは私の生まれ故郷だ。カタルーニャは母のように慕わしい……」(ジュリアン・ロイド・ウェーバー編『パブロ・カザルス 鳥の歌』より)

1876年、スペインのカタルーニャ地方に生まれたカザルスは、12歳からバルセロナ市立音楽院にてチェロを学び始めた。1890年、バルセロナの楽器店にてバッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜に出会い、その15年後に公開演奏を行ったことは広く知られている。カザルスは1899年にパリでデビューを飾り、以後1919年にバルセロナへ戻るまでパリを拠点にしていた。パリでカザルスは、スペインの芸術家たちが集う場であったモンマルトルのキャバレー「ラパン・アジル」近くにある安ホテルで暮らしていたが、金銭的のみならず健康面においても窮していることを知ったアベル・ラム未亡人により、未亡人宅に招かれる。カザルスはここで体調を取り戻し、マルセル・プルースト、レオン・ドーデ、エミール・ゾラ、エリック・サティ、アルフレッド・コルトーなど、上流階級の人々が交流するサロンに出入りし知見を得ることができるようになった。カザルスもまた、その青春時代をパリで過ごした一人であった。

1919年にカタルーニャに戻るも、1939年のスペイン内戦勃発を受けて、カザルスは、スペイン国境にほど近いフランスのプラドに居を定める。同年9月1日、ナチス・ドイツのポーランドに侵攻を皮切りに、第二次世界大戦が開始。本日演奏する「鳥の歌」をカザルスが演奏しはじめたのは、この第二次世界大戦終結頃からであったという。

「鳥の歌」は、もともとカタルーニャの古いキャロル(祝歌)のひとつである。カザルス曰く、カタルーニャ語の歌詞によって「生命と人間に対する敬虔な思いにみちた、じつに美しく心優しいことばで、生命をこよなく気高く表現している」ものである。 1939年以後のフランコ政権下のカタルーニャでは、カタルーニャ・アイデンティティを成すもの(たとえばカタルーニャ語、カタルーニャ伝統音楽や祭礼)に徹底的な弾圧が加えられた事を考えると、この「鳥の歌」をカザルスが愛奏していたことの意味の深さはいかほどだろうか。

「私は公の場で長いあいだチェロを演奏していません。けれども再び演奏するときが来たと感じるのです。カタルーニャ民謡からある調べを演奏しましょう。それはEl cant dels ocells-『鳥の歌』というものです。空にいるとき、鳥たちはさえずります。Peace, Peace, Peace(平和、平和、平和)と。そしてそれは、バッハやベートーヴェン、あらゆる偉人たちが賛え、愛した調べになります。 さらにそれは、カタルーニャという、わたしの民族の魂の中に生まれるものなのです。」

国際連合の総会でこの曲を演奏した際に語られた、94歳のカザルスの言葉である。カザルスがその生涯を賭けて訴え続けた望郷の念と平和への想いを宿して、この曲は永遠に歌い継がれることだろう。

 

 

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