教養とは何か

愛情こそが何物にも優先する、ということに日々確信を得る。それは対象への敬意と言い換えても外れてはいないだろう。

一つの花の美しさ、ある一音のクオリティ。ワインのヴィンテージの一年の違い。もっと拡大すれば、人やもの、それぞれの時間や価値観。

それぞれに共感するかどうかは自由なことだ。だがしかし、自分が共感しないからといって、その人が大切にしていることを頭ごなしに否定するのは最も低俗で、品性の無いことだ。「教養」という言葉の内実が問われて久しい昨今、私なりに言えば、最低限の「教養」とは、その人が大切にしているものを尊重する姿勢。すなわち「愛情」を忘れないことであろうと思う。

たとえばそれは、電車でチェロケースを抱きしめて小さくなるひとがいたとき、ぶつからないように気を使ってあげることだ。ある人にとってそれは、混雑した車内で場所を取る邪魔なモノにすぎないかもしれない。しかしその人にとっては命と同じぐらい大切な、そこに自らの人生を賭けている相棒かもしれないのだ。

あるいは、同じ畑で採れた葡萄の一年違いの差異を丁寧に語るソムリエがいたとき、彼が語る言葉を最後まで全力で聞きとげ、集中して目の前の一杯を味わうことだ。仮に自らの舌ではあまり違いが分からなかったとすれば、そのときにはその舌の鈍さを恥じるべきであろう。

この文章は芸術家を礼賛しているわけでは決してない。芸術を理解すべきだ、というわけでもなければ、芸術を理解してほしいというわけでもない。自分の芸術を望む形で認めてもらえなかったり、少しでも丁重に扱ってもらえないと不平不満を騒ぎ立てるようでは、それは芸術家の慢心に違いない。君はガラス細工やお姫様のようにいつでも丁重に扱ってもらえるわけではないよ、と諭されてしまうことだろう。タクシーが用意されるのが当然でもなければ、やっているだけで補助金が降ってくるような世界でもない。芸術家や作り手もまた、その芸術あるいは作品によって、関心を全く持たない人にも振り向いてもらえるような努力をしなくてはならない。わかってもらうために努力し、自らがやっていることの意味や価値を伝えていくような営みも必要なはずだ。ボードレールが激励を持ってマネに語ったように、「君は、君の芸術の老衰のなかで第1人者にすぎない」(vous n’êtes que le premier, dans la décrépitude de votre art.

しかし、その芸術を成り立たせる職人技や精神に対する「想像力」(決して「理解」ではなく!)の貧困は、教養の欠如に他ならない。想像力の貧困すなわち教養の欠如は傲慢を生む。傲慢は、対話を拒否する。自分の考えや、自分がやっていること以外は全て価値が無いもののようにみなした振る舞いをしてしまう。それはどれだけ繕っても仕草の端々に溢れ出す。

こうした意味で、教養、愛情、敬意、品格、想像力といった言葉は密接に結びつく。wikipediaで調べれば分かるような知識ではなく、百科事典化できない知のありかた、他のひと・ものに対する想像力を、我々はもっともっと鍛えなければならない。大学という機関で身につけるべきはそういうことなのではないかと思う。強く、自戒を込めて。

 

 

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